翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(序章~1章)-海軍再編

まえがき

第二次世界大戦中のドイツ海軍の戦いぶりに関するデーニッツ元帥の批評とその敗因についての意見は、よく取りまとめられた内情暴露といえる。文章中には明らかに敗戦国の海軍将校による合理化といえる部分があり、相互の議論の末に便宜上不問となった国際法違反(※注1)があったとはいえ、本書はなお、海軍史と海戦戦術を学ぶ者にとって慎重な議論に値する。本書は史料であり、同時に専門家による重要な論文である。

それに増して特筆すべきは、戦時における海軍力の重要性について反論の余地のない議論を運ぶその説得力であろう。過去においてはもちろん、未来において、たとえ核保有国同士の戦争であっても、海軍力に対しては兵站上の重要事項として徹底した考慮が払われるだろうとデーニッツ元帥は力説する。彼は徹頭徹尾率直に、ドイツ海軍の数々の弱点を認めている。例を挙げると、第三帝国の政治理念上の失策により、開戦当初Uボートの総数は絶対的に不足していた。さらに艦船の建造よりドイツ空軍の拡充を優先したため水上艦の戦力を増強できず、海軍戦力の不足はイギリス本土侵攻が「延期」された主たる要因の一つになった。

群狼作戦の成功は船団発見のための偵察にかかっていた。偵察に航空機を使うのは理にかなっていたが、海軍の航空支援はドイツ空軍に依存していた。やがて海軍からの圧力により、Fw200を擁する飛行中隊がUボート艦隊の指揮下に入ったが、成果が出るのはデーニッツ元帥曰く、痛ましく遅かった。通信時に用いる共通の用語や連絡手段の設定、両軍の相互理解の確立、そして洋上飛行と識別および正確な発見報告のためパイロットを訓練することが不可欠だったが、その過程での連携不足と時間の浪費が原因だった。デーニッツ元帥曰く、海軍の航空戦力の不足は海戦を行う上でドイツ軍の決定的不利をもたらした。そして換言すれば、海軍が独自の航空戦力さえ保有していたならば、1941年のUボート艦隊の戦闘結果は大きく変わっていただろうとも語る。

強大な陸軍力を誇ったドイツだったが、その海軍力はイギリス本土へ侵攻するには不足だった。戦力を調えるにあたって、ヒトラーはイギリス海軍が重大な脅威であることを見落とした。結局決め手となったのは連合軍の海軍力である。

第二次世界大戦は兵站の戦争だった。ヨーロッパに人員と軍需品を運び続けて骨を折った歳月こそが、連合軍に勝利をもたらした。世界規模の戦争に於いて最低限必要と考えられるだけの海軍力をもしドイツが有していたなら、大西洋でドイツはどれほどの戦果を上げたことだろう、そして連合軍の輸送船の被害はどこまで広がっていただろう?

本書の原文はデーニッツ元帥が口述した内容をヨードル上級大将がタイプして作成した。本書はその英訳である。読みやすさを目的に編集を加えているが、最小限にとどめている。翻訳および編集にあたっては、著者の視点と、また専門家としての意見が齟齬なく伝わるよう細心の注意が払われている。

デーニッツ元帥が語っていない結論を明確にする目的で、イギリス海軍情報局により本書の要約が作成された。デーニッツ元帥は英語があまりわからない風に振る舞っていたが、「素早く読了して、一度二度悲しげな笑みを見せた。彼の最奥の思考があまりにも明瞭に理解されていたことに動揺していたように見えた。そして、この評論に修正すべき箇所はないという意を示した」

第一章
1933年1月30日から1939年9月1日

アドルフ・ヒトラーが権力の座についた1933年1月30日当時、ヴァイマル共和国軍(※注 英語原文ではwehrmachtとあるが、これは1935年以降の呼称でドイツ国防軍と訳すべきものであり、1933年当時はヴァイマル共和国軍(Reichswehr)という呼称だった)は弱体そのものだった。陸軍の兵力は100,000人で、空軍は存在しない状態。海軍の兵力は15,000人で、艦艇の数はヴェルサイユ条約で許可された数にも満たなかった。当時海軍は6000トンの新型軽巡洋艦を6隻保有。水雷艇は12隻が新造され、駆逐艦と水雷艇を合わせて許可された保有数である24隻に届いたという状態(※注2)。ドイッチュラント級のポケット戦艦はドイッチュラントただ1隻が完成していたのみで、2隻の同型艦アドミラル・シェーアとアドミラル・グラーフ・シュペーは建造途中だった。条約の取り決めではもう3隻のポケット戦艦を保有できたが、建造命令は出ていなかった。

ヒトラーの政策のひとつに、十分な戦力を有するドイツ国防軍を創設し、国家の利益を代表させるというものがあった。ヨーロッパの中央部に位置するドイツにとって、再軍備にあたってまず注力すべきは必然的に地上戦力、すなわち陸軍と空軍になった。防備が薄い広大な国境線を防衛する役目は空軍にのみ可能なことで、こうして非友好的な周辺国に対して守りを固めることは国内の立て直しの第一条件だった。結果的に、海軍の軍備に対する要求も変わっていく。

ソ連こそがドイツとヨーロッパの不倶戴天の敵と考えていたヒトラーは、イギリスとの政治的合意に腐心していた。それが追い風となり、結果として、強力な海軍力を有する国々が将来ドイツと敵対することはないとみなされた。

1935年の英独海軍協定締結をもって、ヒトラーの政策は完成をみる。この協定により、ドイツ海軍の軍艦保有量はイギリスの35%(Uボートは50パーセント)と定められた。これはつまりイギリス海軍に対抗する戦力の保有を自ら放棄したのであって、ドイツがイギリスとの戦争を考慮していなかったのは明白である。

この協定でドイツ海軍は広範にわたる制限を受けたが、それを抜きにしても、艦種の偏りがなく小規模でバランスの取れた海軍を創り出すという方針で艦隊編制は進められた。大陸上の隣国(フランスとソ連)に対抗しつつ、他の強力な海軍国と同盟を結びやすい状況を作るのが狙いだった。これはまた、第一次世界大戦の戦訓もあって、すぐさま巨大なUボート艦隊を構築しなかった理由でもある。構築されたのは各艦種をバランスよく保有した艦隊で、Uボートは全体のごく一部分にとどまった。