翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(2章)- 開戦

水上戦力の不足を埋め合わせるべく作戦は大胆さを増し、さらに戦術は絶え間なく転換した。戦法の主軸はしだいに奇襲戦法へと置き換わっていく。第一次世界大戦の二の舞を避けようと、戦力差があればあるだけ大胆な作戦を採らざるをえなかった。第一次世界大戦では艦隊が致命的な損害を受けることはなかったもののドイツ近海から出ることもなく、海軍が戦略的価値を発揮することができなかった。危険な作戦であれば相応の損害は覚悟せねばならない。しかしUボートが増産される分他の艦艇の建造数は減少するため、戦艦や巡洋艦を失えば補充など望むべくもなかった。

建造計画の転換に伴い、完成間近だった艦艇を除いて建造は中止されており、完成にこぎつけた艦はビスマルク、ティルピッツ、ブリュッヒャー、プリンツ・オイゲン、そして駆逐艦、水雷艇、その他小型艦艇がいずれも数隻。グラーフ・ツェッペリンと「B」、そして巡洋艦リュッツオウとザイドリッツの建造は中止された。以降の水上艦の建造計画は駆逐艦、魚雷艇、掃海艇、Rボート、Eボートが主体となり、建造数は少数に留められる。

海軍参謀本部からの指令は上記の方針に則って下された。駆逐艦隊はテムズ川河口ならびにその北方への機雷敷設という危険な任務に幾度となく出撃し、多大な成果を上げる。戦艦は北海へと出撃し、ベルゲン以北のノルウェー海にまで足を伸ばした。ポケット戦艦ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーは大西洋での商船攻撃のため出撃したが、モンテビデオまで退避するという決断が災いし、その途上でアドミラル・グラーフ・シュペーが失われた。

第一次世界大戦の末期にイギリスは艦艇を集結させてUボートに対する守りを固めてきた。もう一度同じ手が使えないように、上記の作戦はイギリス艦隊を動き回らせて分散させるという狙いがあった。大戦末期になると、艦隊行動の目的はこれが主になってゆく。

自国の海上交通路を満足に防衛することが不可能であったため、開戦日にあらゆるドイツの商船に対し、すぐさま母港か中立国の港に寄港するよう命令が下された。

 艦隊を動かしての積極的な攻撃の他、ドイツ近海でも色々とやることがあった。ヘリゴラント湾の防衛と海上の進軍ルート確保のため、オランダからスカゲラックに至る広大な機雷原が構築された。これは後に北北西に広げられ、ベルゲンに届くまでになる。

沿岸部は多くの掃海艇やパトロール船によって守られ、海軍による沿岸警備はさらに増強されていく。

ポーランドとの戦争では、海軍の出番は少なかった。ポーランドの新鋭駆逐艦隊は開戦前にバルト海を出てイングランドに向かっていた。当時は開戦前だったので、それを阻止することはできなかった。駆逐艦以外のポーランドの水上艦は確認されなかった。ポーランドの潜水艦が行動してはいたが戦果を上げることはなく、後に中立国に拘留されることとなる。開戦からの数日間は多数のドイツの小型船舶がポーランド沿岸からダンツィヒ湾西部にまで機雷を敷設していたが、それを除けば海軍の動きは少数のUボートの作戦行動、シュレスヴィヒ・ホルシュタインとシュレジェンの二隻の旧式戦艦による沿岸への砲撃、そして掃海艇などの小型船舶がヘル半島とヴェステルプラッテに進攻する陸軍を支援したにとどまる。

 

 ◯参考資料: 
The Conduct of the War at Sea: SECTION II
(http://www.uboatarchive.net/Misc/DoenitzEssay.htm)