翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(4章)-群狼作戦

「第二次世界大戦」、「Uボート」、「デーニッツ元帥」といえば、群狼作戦と言っても過言ではありません。

Uボート部隊の活躍により大きな被害を被ったイギリスは、輸送船団に護衛艦隊を使って護送する護送船団方式を採用し、Uボートの攻撃から逃れようと画策しました。しかし、それに対してデーニッツ元帥が編み出したのが複数のUボートで護送船団を包囲攻撃する群狼作戦。

その群狼作戦が発案される経緯や成果、ドイツのソ連開戦の裏話に、イタリア戦線まで、ドイツ側から語られる第二次世界大戦がここにあります。

前回:「翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(3章)-ノルウェー侵攻

翻訳:『海上の戦争(The Conduct of the War at the Sea)』―4章

1940年10月から1941年12月

 1940年10月から、イギリス西方の情勢が変化を見せ始める。本土侵攻の危機が去ったことで、イギリスは艦艇を再び対潜護衛に充てはじめたとみられた。イギリス空軍は海上輸送ルートの防衛と対潜護衛の規模を拡大。護送船団方式もかつてない規模で行われているようであった。とにかく沿岸部でのUボートの行動は困難になり、船団の発見も減っていく。船団を発見できないままUボートが長期間航行することは珍しくなくなり、夏の大戦果は過去のものとなった。そのためUボート司令部は1940年10月、組織的な偵察法を取り入れたUボート艦隊運営に踏み切る。Uボートの戦闘は偵察に最も左右されることが明白になっていて、軍狼作戦はその知見にもとづいて編み出された。船団を組んだ輸送船が密集して動くようになると、海上で船団を発見できる機会は著しく減少する。そのような状況で船団を発見した場合、できるだけ多くのUボートを船団まで誘導することが重要だった。そうすれば固まって動く相手にUボートでの集団戦を仕掛けられる。

 この戦術は、数千年変わらず受け継がれてきた戦争の原則に基づいている。すなわち最適なタイミングで、最適な場所に、可能な限りの戦力を投入するということだ。司令所がパリに設置され、Uボートの統率はその司令所から長波と短波の無線を使って行われた。その司令所は1940年11月にロリアンへ移される。

 1940年10月の終わり頃、最初の船団攻撃が行われ、大成功を収める※1。攻撃に参加したUボートは早々に魚雷を撃ち尽くし、作戦は短期間のうちに終わったが戦果は大きかった。この攻撃以降、作戦海域からUボートの姿がなくなるが、これはUボートの慢性的な不足により補充に出せる艦がなくなったからだ。このため1940年の11月いっぱい作戦海域はがら空きになり、戦力が補充されたのはやっと12月初旬になってからだった。それから間もなく再度の船団攻撃が行われ、これも成功裏に終わる。これらの攻撃で、群狼作戦は用兵上有効に機能していると証明された。軍狼作戦を行うにあたっては船団に接触する際の位置取りを考慮に入れ、また艦を適切に船団へ誘導し攻撃命令を発令するには艦同士の連絡を密にする必要があり、艦隊の統制は緊密に行われた。しかし攻撃が始まれば個々の艦が自由に行動できなければならない。この場合の統制とは戦術上の話で、個々の艦の攻撃行動を制限するものではなかった。
※1原文でFirstとあるが、1940年10月以前に2回船団への攻撃が行われている。

 攻撃には夜間が最適だということも立証される。雷撃射程内まで素早く接近できる上にその機会も多いため、Uボートの集団戦闘はもっぱら夜間に行われ、日中の攻撃は有利な状況に限り遂行された。比較的小型で機動性の高いUボートVIIC型が夜間攻撃に適していることもまた判明する。

 ギュンター・プリーン大尉、オットー・クレッチマー、ヨアヒム・シェプケ等この時期の名だたるUボートエース達はみな「VIIC型乗り」だった。かれらはVIIC型に絶対の信頼を寄せ、搭乗艦を変える際も新しい大型の艦には移りたがらなかった。私見ながら、前線のドイツ兵が艦と装備の質にこれほど厚い信頼を寄せた例は、潜水艦乗りの他には見られなかったことだろう。

 1940年から41年にかけての冬、イギリスは護送船団方式をさらに拡大させてゆく。そのためUボートは広大な大西洋に展開する羽目になり、船団の位置特定が一層の大問題となった。Uボートがより遠方の、広大な洋上に展開しなければならなくなった理由は二つある。一つにはイギリスの防衛網が沿岸近くまで拡張され、Uボートが海上で長時間動くような作戦行動が不可能となったこと。もう一つ、船団に集団戦闘を仕掛けるには時間を要したことが挙げられる。集団戦闘のためには哨戒海域の異なるUボートが集結しなければならないが、ほとんどの場合それぞれが遠く離れていたのだ。たとえ船団を発見しても、イギリス沿岸まで24時間以内に逃げ込めるような位置であったなら、他のUボートに位置を伝えて攻撃をかける前に逃げられてしまった。

 この問題を解決すべく、よりよい偵察方法が必要となった。Uボートからは目視で遠くまで見渡せず、索敵には不向きである。Uボートの目として欠くべからざるものは、戦場の主役たる航空機だった。ところが、海上の戦争を遂行する上で一番の問題がここで痛ましいほど明らかになった。元をたどれば軍隊の方針の問題である。戦間期に海軍の航空戦力が編成されてはいたが、それは戦時になれば空軍に編入されるというのが前提だった。ところがそのドイツ空軍は地上戦のみを想定して編成されたもので、結果として海軍の要求には応えられなかったのだ。