翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(4章)-群狼作戦

 その結果海軍は航空支援なしで作戦を遂行せねばならなかった。1940年9月、Uボート司令部、参謀本部の代表、およびUボート艦隊最高指揮官がヒトラーに圧力をかけ、その甲斐あって最大の航続距離を持つ航空機(FW200)の一個中隊が海軍の指揮下に入り、ボルドーへと配置された。この時から空軍の一個中隊とUボート艦隊の海空共同戦線という壮大な実験が始まったが、その滑り出しは散々な結果に終わった。

 両軍の協調態勢が整っていないことは戦間期からの問題だったが、今やそれが眼前に突きつけられていた。第一に行われるべきは共通の用語と連絡媒体の設定、そして何よりパイロットの訓練であった。訓練内容は洋上飛行、航法、船舶識別と正確明瞭な報告、航跡追尾、無線ビーコンを用いてのUボートの誘導などがあった。それでも成果が出なかったのは一つの決定的要因、すなわち航空機からの誘導ミスに集約される。例えば航空機からの誘導が間違っていたためにUボートが船団のいない地点に集結したり、同じ船団を発見した2機の航空機がそれぞれ異なる位置を報告したことからUボート部隊が2つに分断(それぞれが120マイル離れていたことまである)されたりもした。ともあれこのようなトラブルはだんだんと解消されてゆき、最終的にはよい協力関係が築かれた。航続距離の都合上、航空機の活動場所はイギリス―ジブラルタル間の輸送ルート上に限られ、北大西洋の主要な輸送ルートの偵察はUボートだけで行わねばならなかった。

 1941年は船団の発見という重大な課題に直面した年で、それは解決不可能とまで言ってもよいものだった。Uボートの数は依然として少なく、開戦まもなく発令された建造計画の効果はまだ前線にまで及んでいなかった。この段階では沿岸付近での行動など論外。艦隊は外洋に展開したが、くまなく偵察を行うにはUボートの数が足りず、闇雲に探しまわってたまたま敵に出会うのを待つしかなかった。

 広大な外洋で輸送ルートを定期的に変更すれば、船団を有効に防衛できるとイギリスは気づいていた。1941年の7月から8月にかけてUボートの戦果は小さかったが、その原因は船団を発見できなかったことにある。この頃にはすでにイギリスの長距離航空機がUボートに攻撃を仕掛けてきており、Uボートを発見すると敵船団は迂回していった。その後1941年9月初旬、我が方はグリーンランド沿岸付近で船団を発見、攻撃を成功させる。敵は外洋の広大さをうまく活かし、北はグリーンランドやアイスランド、南はアゾレス諸島経由にまで船団のルートを分散させることでUボートの偵察をかわしていた。船団を発見できれば攻撃は確実に成功していたから、問題は攻撃より発見にあった。敵を探して何週間も待ち続けるということが続いた挙げ句、戦果の振るわない時期が数ヶ月続いた。

 海軍が長距離偵察機の大規模活用を行えていたら、1941年のUボート艦隊の戦果は大きく違っていただろう。海軍の航空戦力の不足こそ、ドイツ海軍の決定的な弱点であった。

 加えて、アメリカ合衆国の動向もUボート艦隊の枷になった。アメリカは西半球の防衛を宣言し、あくまで中立を保ちつつも、ドイツ艦艇が来れば攻撃を行うと発表。実際にアメリカの駆逐艦がUボートに爆雷攻撃を仕掛けた例もある。アメリカの行いは国際法に反することだったが、ドイツの政治指導者はUボートの指揮官に対し、アメリカの艦艇および商船とは絶対に事を構えないよう命令を下した。その結果、大西洋西部ではイギリスの駆逐艦への攻撃も行えなくなった。夜間に潜望鏡越しで見ると、アメリカ艦とイギリス艦を見間違えるおそれがあったからだ。

 Uボート艦長にとっての最大の不運は、ニューファンドランド島より西へ向かうのが禁じられたことだ。これは政治指導者の決定で、同島以西にてアメリカとの衝突を防ぐことが目的だった。アメリカとの戦争を避けるための配慮だ。アメリカからイギリスへ向かう船団はニューファンドランド島のレース岬を越えてからそれぞれの輸送ルートに散らばるのだが、この決定により、船団の出発地および船団が集中する地点(ハリファックス近辺など)での哨戒ができなくなり、代わりに広大な太平洋に展開することになった。さらに海軍参謀本部は地中海にUボートを派遣するよう要請。大西洋で活動できるUボートの数が減ったことで船団発見がさらに困難となり、戦果はいっそう落ちこんだ。

 上記の理由により1941年の戦果は控えめなものだったが、幸運なことにこちらの損害も小さかった。Uボート艦隊の戦闘能力は十分で、戦果が上がらないのは船団との接触が少ないためであること、そして艦の数さえ揃えば事態は改善することをUボート乗り達は心得ていて、先々への見通しは楽観的だった。

 ノルウェーと西ヨーロッパの占領後、北海と北極海に展開していた艦隊への任務はなくなった。牽制として配置しておくこともできたが、大規模な戦力を遊ばせておくのは無駄であり、長射程を誇る近代兵器(空爆や航空機から投下される機雷)の前にむざむざと損害を蒙る恐れがあったため却下された。この段階(1941年)ではUボートの数が少なく、そのため通商破壊戦には最大限の支援を必要とした。ビスケー湾内の港湾が基地として使われていたが、その中で戦艦の拠点として活用できたのはブレストだけだった。

 そんな中で戦艦と重巡洋艦、ならびにポケット戦艦の太西洋派遣が決定される。この出撃には航続距離の関係で駆逐艦は参加できなかった。駆逐艦の航続距離ではイギリス北方を回る航路が取れず、続くフランス西部からの長距離出撃にも同行は不可能だった。駆逐艦の護衛なしで大型艦艇を動かすのはリスクを伴ったが決定が覆ることはなく、1940年秋、重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、および戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが大西洋経由でブレストに向かい、そこから北大西洋に向けて数度の出撃を行う。洋上の艦隊への補給を行うため、補給・修理用の船舶が西フランスにて大規模に動員された。

 1941年初頭にアメリカがアイスランドを占領したが、これによりアイスランド沿岸の航行が困難を増した。このアイスランド占領を含むアメリカの一連の行動(イギリスへの駆逐艦譲渡、西半球防衛宣言、大西洋西部へ進出したドイツ艦艇への攻撃宣言、アメリカへの脅威を煽るプロパガンダ等)、ならびにアメリカの指導者の発言からは、自国内の孤立主義者の考えをヨーロッパへの参戦とその準備へ傾けようとする意図がうかがえた。