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「人にやられて嫌なことは人にはしない」で本当に良い?今の大人は危険ドラッグや援交を否定できるか?

危険ドラッグ使用者による事故や犯罪が多発し、SNSを通じた援助交際なども近年増加の一方を辿っている。犯罪行為とまでは言えなくとも、公共の場でのモラルやマナーの崩壊も叫ばれている。コンビニの前で座って飲食する若者や車内で化粧する女性。小さな声ならば大丈夫だろうと車内で通話するサラリーマン。

他の人に迷惑が掛かっているとは言い切れないし、犯罪行為でもない。また、最低限の配慮はしていると感じられると何も言えない。しかし、「本当にそれで良いのか?」と疑問に感じる場面は沢山あるはず。

日本に限らず、
「人にやられて嫌なことはするな」
「人にされたら嬉しいと思えることをしろ」
こんな風に一個人の感覚に依存した倫理感が植え付けられると、その個人の感覚を超えた「公共心」などが関わっている時に何も言えない。

あなたは、「誰にも迷惑は掛けていないのだから、別に良いでしょ? 他の人が同じことしてても気にしない」と言われて、きちんと答えられますか?

危険ドラッグや援助交際、自身が罪に問われない行為

危険ドラッグや援助交際では、危険ドラッグの使用者や援助交際で身体を提供した女性は罪に問われない。

法律が絶対だとは言わないが、少なくとも「法律で禁止されているからダメ」という、言い分は通用しないケースがある。一方で、ドラッグの売り手や女性の買い手が多くの場合は罪に問われる。嘗ては著作権違反のアップロードが違法でダウンロードは合法だったが、これも法改正で変わった。

他の人に直接的に迷惑をかけているとは言い切れず、且つ法律で禁止されているわけでもない。
そんな行為を「悪」だと断ずることなど出来るのだろうか?

答えは、「出来る」だ。

最終的に、「それは人の迷惑になっている」と言い切れる形に落とし込める。

危険ドラッグについての課題

危険ドラッグは依存性が高く、脳にダメージを及ぼし、モノによっては覚せい剤や違法ドラッグより遥かに有害であるものも多い。これを売る側は、明確に悪だと言えるだろう。「知らなかった」で済まされるものでもない。残念ながら必ずしも法律で裁けるとは言い切れないが、それが人の倫理に照らして間違っていると言い切るのは難しくない。

だが、使う方はどうだろう?違法でも危険でも、自分の体に害を与えるだけのものであり、本人がリスクを承知で使っているのであれば、何の問題もない気がする。しかし、大麻や覚醒剤は違法であり、同じような効果を持つ「たまたま違法ではないドラッグ」を使うのは、本来間違っている行為の筈。しかし、危険と言うだけで、それが誤った行為であると説得するのが急に難しくなる。

そんな若者を前に、大人は「自分の身体は大切にしろ」「将来のことを考えろ」「事故や犯罪に繋がるかもしれない」と説得するかも知れない。しかし、若者が「自分の身体なんてどうでもいい」「将来の希望がない」「人に迷惑をかける行為は絶対にしない」と言ったら、大人はそれでも間違っていると言い続けられるだろうか?論点をずらして反論するのが精一杯かもしれない。

大麻の場合、国によっては合法であり、歴史的にも長く医薬品として普通に使われてきたドラッグだ。国が使っても良いと規定している薬物であり、それを使うのが日本でだけ間違っているとは更に言い難い。

危険ドラッグは何故悪なのか?

ただ、これは大麻の依存性の高さや有害性の高さの解釈が国によって違うだけであり、「人体に明らかに有害な薬物を快楽目的で摂取することは悪である」という、社会全体の解釈に違いはない。

では、何故悪なのだろうか?

まず鍵となるポイントは、「快楽目的で有害な薬物を摂取すると、高確率でその人物の生存や生活に支障を来す」と言う点だ。この確率が低いのであれば問題にならない。

これが悪であると言える具体的な理由は実に様々で、その人物の社会的背景や教育によってしっくり来る解釈は異なるだろう。

だが、共通して言えるのは二点。
「公共財の損壊」「人間の価値の毀損」である。
話がやたら大げさだとか、人の身体を公共財などと言ってのけるのは如何なものかという反論はあるはずだ。

しかし、私達の身体は私達だけが好きにして良いものではないと言うのは理解して欲しい。実際のところ人にもよるが、9割以上はあなたのものだ。ただし、残りの1割はあなたの家族や友人や社会・共同体の資産だ。というのも、私達の全ての活動が、私達以外の誰かに多かれ少なかれ影響を与えるし、与えられている。

家族や共同体の努力によって、私達の生活は支えられ、支えている。人が一人死ねば、病気になれば、不自由になれば、その人を活かすために活動してきた人間の努力が無為になり、場合によってはさらなる努力を強いられる。公共財というのを、「努力」と言う部分でのお金や設備と言い替えても理解できる。例えば、人がお金と時間を使って育てた生き物を戯れに殺すのが誤りであるように、それが自分自身であっても身勝手な理由で傷めつけるのは誤りなのだ。

加えて、人の名誉を傷つける行為が誤った行為であることは言うまでもないが、快楽のために自身の身体を損壊すると言う行為そのものが人の価値を貶める行為だとしたらどうだろう。

つまり、薬漬けになって身体を壊し安易な快楽を得るという行為は、知恵を絞り、努力しながら生き、幸せを求める人々の生活を冒涜しているといえるのではないだろうか。例えば、公共の場で「お前の人生なんてクズみたいなもの。薬漬けの家畜にも劣る」などと言ってのければ、分かりやすく名誉毀損だ。

簡潔に言えば、

「人は家族や周囲の人間の努力で生かされていて、身勝手な理由で故意に身体を壊す行為は彼らの努力を無駄にした上でさらなる努力を強いる」

「人体を破壊する薬物によって快楽を得て一生を無為にするのは、人命を重んじ、幸福のために努力する大部分の人々に対する名誉毀損になる」

と言うことだ。「おふくろさんが悲しむぞ」とか、「人の一生を馬鹿にするな」と言うのと同じ意味になる。

「俺の身体は俺のもんだ!」と言いたくなる気持ちも分かるが、あなたはあなたである前に人間であり、社会で生きる人の一人であり、家族の一人である。彼らを蔑ろにするのは、間違いなく「他人に迷惑をかけている」はずだ。社会というのは、意外に不自由な世界だと理解するべきだろう。

援助交際のについての課題

援助交際は女性が金銭目的で性行為などを男性に対して行う行為だが、刑罰の対象になるのは18歳未満の場合だけで、所謂児童買春として扱われるため、誘った児童は基本的には被害者となり処分されない。

この場合、金銭授受があり、売る女性も買う男性もお互いに利益を得て、互いにWin-Winの一種の経済活動という解釈も出来る。さらに、互いに18歳以上であれば処罰されることはなく、処罰されるのは斡旋した側だけだ。しかも、国によっては16歳から合法となる。

性行為の危険性などをきちんと理解しているかも不確かであり、高い確率で病気や妊娠などの身体や命に関わる結果になるが、ドラッグとは違って必ずしもその行為がそう言う作用に結びつくとは言い切れないのが難点だ。

さらに、国によって「児童」に当たる年齢が異なるというのも、「何が悪いのか分からない」と言われる理由になり得るだろう。

中高校生の援助交際は何故悪なのか?

これもまた、先の「公共財の損壊」「人間の価値の毀損」に当てはまる。だが、今回は「児童の責任能力」というのも関わってくる。

児童は成人と比べて、さらに「自身の身体が自分のものではない」のだ。

まず、そもそも児童は自分の行為をきちんと理解しているとは言い切れず、多くの活動が基本的には親や教師の監督下で行われる。さらに、自身で生計を立てていないことが殆どで、ほぼ間違いなく「親や社会に生かされている」存在だ。じゃあ、親が好きに出来るのかというとそんなわけはなく、大半が児童本人のものであり、親と共有している状態だ。

ただし、問題は「どうして害になるのか」ということ。

何故なら、適切に管理できて責任能力のある大人であればある程度許容されてしまう行為(違法だが刑罰は無し)だからだ。

アルコールであれば、幼い身体ではアルコールを処理できないと言う明白な理由がある。しかし、性行為に関しては、小学生でもない限り中高生の成長度合いには差があり、身体の構造的に危険とは言い切れない(知識・精神面では別。相手が小学生の場合、合意があっても強姦扱い)。金銭目的で身体を売る風俗行為そのものが悪であると言う弁論もあるだろうが、議論の多い話題であり、必ずしも悪だという共通理解が得られるとは思えない。

 そのため、「適切に避妊が出来ない」「性病の危険性がある」「事件に巻き込まれる」と言う、あくまで「可能性」を取り扱うような言い方は避けようと思う。十分、それがダメと言える理由にはなるが、それが倫理的に問題があるとは言い切れないからだ。

このケースの鍵になるのは、「児童の身体に関わる金銭取引が悪である」と言う社会の認識だ。

人身売買が悪であるのと同じで、最大の問題は金銭取引にあると言って良い。もし、この男女間に金銭による利益関係が無く、純粋な恋愛関係による性行為があった場合、これから説明する理屈では悪だと言えず、別のアプローチを考える必要がある。また、金銭取引がない場合、適応される法律も異なる。児童買春は刑法で規定、単なる性交渉は児童福祉法で規定。

児童というのは、「精神・肉体共に未熟な人間である」と言う大前提があり、環境や経験による影響が成熟した大人に比べて非常に大きい。そのため、精神的・身体的なトラブルや困難を抱える可能性が高く、多くの法律によって保護される必要がある。

さらに、未熟ではあるものの今後の社会において重要な資産(価値あるもの)であり、育成に掛かる努力・費用・負担は馬鹿にならない。児童の存在そのものに、社会的に高い価値があるのは自明であるはずで、それまでに掛かった周囲の労力やこれから児童が生み出す価値を鑑みれば、その本来の価値を金銭ではかるのは不可能である。

簡潔に言えば、

「児童の価値をお金ではかる行為は、児童の価値を毀損する行為である」

ということ。言ってみれば、「子供の価値は札束にはかえられない」という話だ。

それは、児童自身にも言える事で、「自分自身の身体に値札をつける」と言う行為は、「自分自身だけではなく、その他の児童の価値も貶めている」と知るべきだろう。仮にその子の身体がまかり間違って売れるものだったとしても、同じような身体を持っている別の児童の身体は売れるものではない。労働に値段をつけるのであればまだしも、身体そのものに値段をつける事はできない。

少し大げさな話で子供が理解してくれるかは分からないが、これもまた「他人に迷惑をかけている」。その子に大切な友人がいれば、その子に自分と同じ値段をつけるのかと問いたい。本人が良くても、その友人や大部分の女生徒にとって値札を付けられる行為は不快であり、冒涜なのだ。

「私は私、他人は他人」で別の価値だと主張したいだろうが、価値の殆どは他人が付けるもので、周囲はその子が5万円で他の子が∞円だとは見てくれないはずだ。

ただ、18歳を超えた瞬間児童扱いをされなくなり、違法とは言え刑罰の対象とならないのも納得が行かないだろう。国によっては年齢次第で完全に合法であり、歳を重ねる毎に価値が下がっていくようで売春そのものが持つ文化的問題も見え隠れしている。苦しい解釈としては、「身体そのものを売っているのではなく、労働として値段を付けられるだけの十分なスキル・知識を得た」と言う言い方になるかもしれない。

どちらにしても、売春というのは、社会の営みとして大きな課題を孕んだ適切に対処すべき問題と言える。

自分自身の感覚だけで、他人の迷惑は測れない

これらの事柄から言えることは、「本人の感覚だけでは、他人に迷惑が掛かっているかどうかは分からない」と言うこと。

「自分がされても良いから、他人にしても問題ない」なんて理屈は、小学生で卒業するべき倫理観で、それが間違いであることは大人が教えて上げなくてはいけない。そもそも、人にどんな価値があるのかと言う一番大切な事は、本人の感覚だけでは分からないものなのだ。

「自分を大切にしろ」「他人を敬え」と教えても、その本当の意味を理解できる子供は少ない。さらに、育ってきた文化や受けてきた教育で価値観は異なる。

自分自身の感覚が、価値判断の全てにはなり得ない。そのためには、他人の考えや価値観を理解し、自分自身の感覚を疑うことが必要だ。この記事では、一貫して「人には価値がある」と言う価値観を持って述べているが、これは世界中の国々や文化、社会の憲法や法律で明文化されており、一般的に受け入れられている価値観だ。

もし、誰かが「人には大した価値がない」と考えているとすれば、その人の感覚は高確率で「大部分の人とずれている」可能性があると考えた方が良い。

最低限理解しなければいけない一般的な価値観であり、それを理解できた上で様々なケースについて善悪の区別が付く。残念ながら、大人の中には善悪の区別が付いた上で悪に走る人間もいるので、価値観の理解が全ての問題の解決にはなり得ない。

しかし、少なくとも私達大人が、子供にそう言った問題について教えられるようになっていなくてはいけないはずだ。

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