Uボートといえば大西洋で猛威を振るった有名な潜水艦です。複数のUボートを効率的に運用する群狼作戦によって多大な戦果を上げましたが、ドイツがUボートを海上の戦争の主力にしたのには止むに止まれぬ理由がありました。
ドイツが海を挟んだ先には世界一の海軍を誇る英海軍。ベルサイユ条約による軍縮もあり、脆弱な海軍しか持っていないなかったドイツが打てる手は限られていました。その中でも最良の策は、イギリスと戦わない事。そのため、ヒトラーは出来る限りイギリスを刺激しないように、海軍力をギリギリ削ってしまいます。
しかし、いざ開戦となるとイギリスも宣戦布告。海軍司令部は脆弱な海軍でイギリス海軍に対抗しなければいけなくなります。イギリス海軍を打ち破るのは諦めざるを得ず、少ない戦力で最も効果が高いと考えられるのは補給線の破壊。慌ててUボートの増産命令を出すも時遅く、戦争初期は限られたUボートで作戦を行わなければなりませんでした。
2章では、そんな戦争初期のドイツ海軍の苦難についてゲーリング元帥が語っています。
前回:「翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(序章~1章)」
翻訳:『海上の戦争(The Conduct of the War at the Sea)』―2章
1939年9月から1940年4月
開戦当初、ドイツ海軍はひどく脆弱な状態だった。海軍再編の間はイギリスが敵に回る可能性が考慮されなかったために、ドイツ海軍は数の上で圧倒的にイギリスに負けており、また軍需資材の内訳もイギリスとの戦闘は考慮されていなかった。
一方で、1939年9月の開戦時、海軍に求められたのは次のようなことだった。
イギリスは原材料と食糧供給、ひいては軍の展開を全面的に海運に依存しているため、ドイツ海軍の任務はイギリスの海上輸送路を断ち切るという一点に絞られる。しかしイギリス艦隊に対抗するための艦隊を編成し、戦闘と海上輸送路分断の両方を行うのが不可能なのは明白。目標を海上輸送路に絞ってそれを早急に叩くことが残された唯一の道であり、この目的にかなうのは、水上艦の戦力で勝るイギリスの勢力下に潜入できるUボート以外になかった。
そのため、イギリスとの戦争が現実のものとなった1939年になって、海軍は軍備の転換を迫られた。各艦種を均等に配した艦隊を編成するというそれまでの方針は改められ、完成間近の艦以外は建造中止となる。それから命じられたのはUボートの大幅な増産で、以前は1ヶ月に2隻から4隻建造されていたのが、1939年9月に新たな建造計画が発令され、1ヶ月に20から25隻を目処に段階的に建造数が引き上げられていった。
主に建造されたのはUボートⅦC型とUボートⅨC型である。ⅦC型は517トンと比較的小型の扱いやすい船であり、同サイズの艦と比較して活動半径が広く、魚雷の搭載数も多かった(12から14発)。Uボート艦隊司令部の意見としては、攻撃時の戦術的利点が理想的な組み合わせで備わっていて(軽く操艦しやすい。また夜間に発見されにくく、旋回半径が小さい)、活動半径と武装も戦力としては十分というものだった。もう一方のⅨC型(約740トン)は操艦が複雑で比較的扱いにくい艦だったが、行動半径はさらに伸び、魚雷の数も増した。どちらの艦もすでに小規模なUボート艦隊に配備されており、平時の活動に於いて成果を上げている。
1939年9月にUボートの増産が発令されたが、その建造期間は21ヶ月と見積もられ、2年間は実戦投入が見込めなかった。ドイツ海軍の戦備はイギリスとの戦争突入と同時に始まったわけで、Uボートを活用した戦争を有利に運ぶのにひどい後れを取ったのは明白だった。1942年は多数の船を沈める大戦果を上げたが、個々の艦の稼働効率は1940年時点より落ちていた。Uボート1隻が撃沈した平均トン数は、1942年には1940年当時の10分の1まで下がっている。
イギリスとの戦争に備えて最高司令部から建造計画の変更が通達された時点で、Uボート艦隊司令部は次のような状況にあった。
Uボート艦隊はⅡ型、Ⅶ型、ⅦC型、Ⅸ型のUボートを少数保有していた。行動半径の狭いⅡ型の作戦領域は北海、イギリス東岸、オークニー諸島、スコットランド周辺に限られた。UボートⅦ型(ⅦC型の前身で、燃料積載量が少ない)であれば、スコットランド回りのルートでイギリス西岸までたどり着けた。ⅦC型の行動範囲はスペイン北岸まで、ⅨC型であればジブラルタルまで及んだ。この距離はイギリス北部を通ることが前提になっていて、この長距離の移動で燃料の大部分が消費される。そのため艦隊司令部は1939年11月にイギリス海峡を通って複数のUボートを大西洋に向かわせようと試みたが、結果は失敗に終わり、甚大な被害を出した。幅の狭いドーバー海峡に敷設された機雷が原因とみられており、あまりに危険なため以後このルートが使われることはなかった。
Uボートが戦闘をするにあたって、海軍参謀本部からの命令は絶対だった。命令により、商船への攻撃は国際法に違反しない状況に限られた。加えてヒトラーはあらゆる客船とフランス国籍の全ての船に対しての停船勧告と攻撃を禁止した。目的は明白で、ヒトラーは戦争をポーランドとの間だけに留めるため、フランスの積極的な介入を防ごうとしていたのだ。もっとも、すでにイギリスとフランスから宣戦布告がなされていたのだが。
ハーグ条約の取り決めでは、商船に武装を施し、Uボートに対する防衛のために武器の使用命令が出た時点でその船は国際法の保護から外れる。この段階で、公的に、または十分な信憑性をもって武装が確認された船に対しての攻撃だけが許可されていた。また商船と戦闘艦の区別が不可能という理由で、船体を黒く塗装した船に対しては夜間に限り攻撃が許可された。やがてイギリスが全ての自国商船に武装を施したことを公式に宣言すると、イギリス近海での活動とあらゆるイギリス商船への攻撃が解禁される。開戦後まもなく、護送船団方式がイギリス海軍で一挙に広まった。戦闘艦の護衛がついた船団は拿捕規定が定める保護の対象から外れ、国際法による保護は受けられなくなる。このため、Uボートは戦闘艦の護衛がついた全ての商船への攻撃が許可された。
出撃できるUボートがごく少数だったため、イギリスの海上輸送路へ十分な打撃を与え、海上戦闘の趨勢を左右するに至らないのは明白だった。1939年の冬から1940年にかけて、作戦海域にいたUボートの数は10隻を超えることはなく、少ない時は2隻にまで落ちた。Uボート司令部は危険を承知で沿岸近くまでUボートを接近させ、船の移動ルートが集中する地点を攻撃しなければならなかった。艦隊は3つのグループに分けられ、艦種ごとに以下の通り作戦領域が定められた。
(1)小型のⅡ型とⅦ型はイギリスの港湾と沿岸周辺
(2)ⅦC型は北大西洋から、なるべくイギリス沿岸近くまで
(3)極少数のⅨC型はさらに遠く、ジブラルタルまで
1つめのグループはスカパ・フロー、マレー湾、フォース湾、シェトランド諸島沖、ロッホ・ユー、リバプール、イギリス海峡での作戦行動に従事した。プリーン大尉によるスカパ・フロー攻撃作戦は、攻撃前に侵入が可能かどうか判断するための航空偵察なくしては成功しなかっただろう。この作戦の成功でUボートによる潜入作戦が可能だと証明されたが、魚雷の不具合により、私が当初期待していたほどの戦果は上がらなかった。フロイエンハイム大尉によるフォース湾への攻撃で巡洋艦ベルファストを損傷させ、ロッホ・ユーへの攻撃では戦艦ネルソンを損傷させた。クライド湾への攻撃は、二度の失敗の末中断される。
上記の作戦では基本的に魚雷と機雷が併用された。このうち磁気機雷については、開戦後1ヶ月の間は港湾近くの海峡への敷設が可能だったため有効に機能したが、魚雷については思いがけない期待外れに終わる。戦前に考えられていたほど魚雷の磁気信管は完成されていなかったらしく、目標に命中する前に爆発したり、命中しても不発に終わるのがしょっちゅうだった。戦前に磁気信管に注力していた分、魚雷の深度調整技術の研究はおざなりになっていた。接触信管にも同じ事が言え、このような状況はUボート艦隊の活躍の妨げとなった。1939年11月、オークニー諸島西方でUボートが戦艦ネルソンに対し至近距離からの雷撃を行ったが、命中した魚雷は全て不発だったというケースがある。
この時期、イギリス軍の防備はまだ整っていなかったが、その割にUボートの損失は大きかった。理由としてクルーの実戦経験不足、そして実戦になるまで見過ごされていた技術的欠陥がある。例えばⅦ型Uボートは排気弁から水漏れが起こり、長時間の潜航時や敵船に追われて海中にいる時などに艦尾から少しずつ浸水してくる。やがて艦は浮上を余儀なくされ、敵がいればそこで撃破された。
水上戦力の戦略的活用には大きな壁があった。戦力で勝るイギリス海軍相手に制海権を争っての戦いを仕掛けるわけにいかず、フランスが参戦すると状況はさらに悪化する。フランスの海軍もドイツ海軍より強力だった。ドイツ軍の海上輸送路の防衛は戦力配分を考えると不可能なために度外視せざるを得ず、バルト海とスカゲラック海峡以外のルートでの海上輸送は、戦前と比べて規模の縮小は避けられなかった。一方、沿岸部に陸軍と空軍の戦力を配置していたため、敵が直接ドイツ近海に侵攻してくる可能性はないと考えられていた。そのため、あらゆるドイツ軍艦隊は攻撃だけに集中できた。海上戦闘の主目標が輸送船に切り替わると、水上戦力も可能な限り動員された。海軍が戦争の対局から見て重要な役割を演じたのは、ただこの一点だけである。
水上戦力の不足を埋め合わせるべく作戦は大胆さを増し、さらに戦術は絶え間なく転換した。戦法の主軸はしだいに奇襲戦法へと置き換わっていく。第一次世界大戦の二の舞を避けようと、戦力差があればあるだけ大胆な作戦を採らざるをえなかった。第一次世界大戦では艦隊が致命的な損害を受けることはなかったもののドイツ近海から出ることもなく、海軍が戦略的価値を発揮することができなかった。危険な作戦であれば相応の損害は覚悟せねばならない。しかしUボートが増産される分他の艦艇の建造数は減少するため、戦艦や巡洋艦を失えば補充など望むべくもなかった。
建造計画の転換に伴い、完成間近だった艦艇を除いて建造は中止されており、完成にこぎつけた艦はビスマルク、ティルピッツ、ブリュッヒャー、プリンツ・オイゲン、そして駆逐艦、水雷艇、その他小型艦艇がいずれも数隻。グラーフ・ツェッペリンと「B」、そして巡洋艦リュッツオウとザイドリッツの建造は中止された。以降の水上艦の建造計画は駆逐艦、魚雷艇、掃海艇、Rボート、Eボートが主体となり、建造数は少数に留められる。
海軍参謀本部からの指令は上記の方針に則って下された。駆逐艦隊はテムズ川河口ならびにその北方への機雷敷設という危険な任務に幾度となく出撃し、多大な成果を上げる。戦艦は北海へと出撃し、ベルゲン以北のノルウェー海にまで足を伸ばした。ポケット戦艦ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーは大西洋での商船攻撃のため出撃したが、モンテビデオまで退避するという決断が災いし、その途上でアドミラル・グラーフ・シュペーが失われた。
第一次世界大戦の末期にイギリスは艦艇を集結させてUボートに対する守りを固めてきた。もう一度同じ手が使えないように、上記の作戦はイギリス艦隊を動き回らせて分散させるという狙いがあった。大戦末期になると、艦隊行動の目的はこれが主になってゆく。
自国の海上交通路を満足に防衛することが不可能であったため、開戦日にあらゆるドイツの商船に対し、すぐさま母港か中立国の港に寄港するよう命令が下された。
艦隊を動かしての積極的な攻撃の他、ドイツ近海でも色々とやることがあった。ヘリゴラント湾の防衛と海上の進軍ルート確保のため、オランダからスカゲラックに至る広大な機雷原が構築された。これは後に北北西に広げられ、ベルゲンに届くまでになる。
沿岸部は多くの掃海艇やパトロール船によって守られ、海軍による沿岸警備はさらに増強されていく。
ポーランドとの戦争では、海軍の出番は少なかった。ポーランドの新鋭駆逐艦隊は開戦前にバルト海を出てイングランドに向かっていた。当時は開戦前だったので、それを阻止することはできなかった。駆逐艦以外のポーランドの水上艦は確認されなかった。ポーランドの潜水艦が行動してはいたが戦果を上げることはなく、後に中立国に拘留されることとなる。開戦からの数日間は多数のドイツの小型船舶がポーランド沿岸からダンツィヒ湾西部にまで機雷を敷設していたが、それを除けば海軍の動きは少数のUボートの作戦行動、シュレスヴィヒ・ホルシュタインとシュレジェンの二隻の旧式戦艦による沿岸への砲撃、そして掃海艇などの小型船舶がヘル半島とヴェステルプラッテに進攻する陸軍を支援したにとどまる。
The Conduct of the War at Sea: SECTION II
(http://www.uboatarchive.net/Misc/DoenitzEssay.htm)