世界で初めて有人動力飛行を成功させたことで名高いライト兄弟。
移動や物流に空路が活用される現代社会において、飛行機の実現可能性を立証した彼らの功績は広く讃えられています。
とはいえ、他の技術もそうですが、彼らの時代に突然飛行機が現れたわけではありません。この記事では、ライト兄弟に至るまでの飛行機開発の歴史を見ていきます。
古い時代の飛行実験
蝋で固めた鳥の羽で空を飛んだというギリシャ神話のイカロスとダイダロスの伝説からうかがえるように、空を飛ぶことは古代から人類の夢のひとつでした。
今残っているだけでも、早くも9世紀には飛行実験を行った記録があります。
17世紀の歴史家アフマド・ブン・ムハンマド・マッカリーの著書には、9世紀の科学者イブン・フィルナースについて記述されています。
それによると彼は、全身に鳥の羽を身につけ、一対の翼を備えた姿で高い場所から飛び降り、かなりの距離を滑空したとされています。
鳥の翼を模した道具を身につけ、高い場所から滑空する飛行実験は英語でタワージャンピングと呼ばれますが、こうした記録は各地に残っています。
イギリスでは11世紀、マルムズベリーのエイルマーという修道士が自作の翼で滑空。ところが強風にあおられて墜落し、両足に障害が残ったのだとか。
時代は下って17世紀のオスマン帝国には、グライダーで3km滑空し無事着地したヘザルフェン・アフメト・チェレビという人物や、火薬を使った一人乗りロケットで飛行し、滑空からの海上着水で無事生還したラガリ・ハサン・チェレビという人物の記録が残っています。
日本でも18世紀の江戸時代、浮田幸吉の飛行実験の記録があります。
紙や布を貼って巻物や屏風を作る表具屋で働いていた幸吉は、鳥が空を飛ぶ仕組みを熱心に研究していました。
彼は仕事で培った技術を活かし、竹と紙と布で自作の翼を制作し、飛行を試みたとされています。
ただ、実験の結果がどうなったのかは詳しくわかっていません。ただわかるのは、これが日本史上初のタワージャンピングの例だということです。
ライト兄弟の成功の要因
こうした先人達のこころみは、ほとんどがグライダー飛行を成功させようという挑戦でした。
グライダーが墜落せず滑空するために理解しておくべき航空力学と、それに基づいたグライダーの設計は、ライト兄弟の成功の土台であるといえます。
グライダーが飛躍的に発展したのは19世紀前半のこと。その立役者はジョージ・ケイリーというイギリス人。
彼は若いうちから航空力学に関する実験を行っており、空中で翼にかかる力の分類や、グライダーの最適な重心の位置など、現在につながる航空力学の下地を築き上げました。
グライダーの開発はいくばくかの中断を挟みましたが、1850年頃には人間を乗せてのグライダー飛行に成功。ライトフライヤー号の飛行から実に半世紀前の出来事です。
ケイリーが作り上げたグライダー飛行の基礎は、ドイツのオットー・リリエンタールに引き継がれます。彼は自作のグライダーを使った試験を何度も行い、その詳細なデータを記録。データをもとに改良を重ね、安定した滑空のできるグライダー開発に貢献したことで当時の飛行機研究者から一目置かれる偉人でした。
ライト兄弟は大西洋を挟んだアメリカに在住していましたが、英訳された彼の著書を入手しています。そして彼が残したデータを活用し、時には彼のデータの誤りも修正しつつ、さらなる実験を交えながら飛行機開発を進めていったのです。
この事例だけを見てもわかるように、飛行機の開発は複数の国にまたがって何人もが努力した積み重ねの末の成功です。
動力飛行の達成は、科学や技術の進歩だけでなく、ある程度のグローバル化も必要だったといえるでしょう。
その他の成功要因
こうした先人から学んだライト兄弟はついに1903年、ライトフライヤー号の初飛行を成功させました。
彼らが本格的に飛行機開発に着手したのは1899年のこと。そこから実に5年足らずで飛行機を完成させたのはまさに驚異的です。
彼らの成功には、他にどのような要素が絡んでいたのかを見ていきます。
入念なグライダーの改良
兄弟はリリエンタールをはじめとする先人を参考に、まずは1899年に凧を、翌1900年には自作グライダーを制作。それから数年間、実験と改良を繰り返しています。
1901年からは有人グライダーでのデータ取りに着手。自らパイロットとなって滑空しデータを取るうち、リリエンタールの収集したデータの正確性に疑問を抱き始めます。
そこで兄弟はさらなるデータ収集を目的に、風洞実験の設備を自作してのデータ収集を開始しました。
風洞とは簡単に言えば、風の流れを測定するためのトンネルのこと。飛行中の飛行機は常に前方から後方へ流れる空気の影響を受けています。
風洞は空気の流れを人工的に発生させ、気流とその影響を可視化・測定するもの。飛行機の例で言えば、翼の断面や縦横の比率をどう変えれば浮かび上がるための揚力を効率よく得られるか、また気流を乱さず安定して飛行できる機体のシルエットは何か、といったデータを効果的に取得できるのです。
兄弟は自作の風洞設備を使ってこれまで以上に詳細なデータを取得し、機体の設計を飛躍的に洗練させていきます。翼の断面はさらなる揚力を生む形に改良。また翼の縦横幅の比率にも注目し、最終的には細長い翼の利点を見出してもいます。
当時のアメリカでは、風洞実験はまだ新しいものでした。先進的な実験設備を備えたライト兄弟は1903年までの間に数え切れないほどの飛行実験と機体の改良を繰り返し、やがてその努力はライトフライヤー号となって実を結びます。
パイロットとしての高い技量
ライト兄弟の飛行機開発は、兄弟がパイロットとして腕を磨く過程でもありました。
飛行機を作る上で兄弟は操縦性をかなり重視していましたが、操縦性を上げれば飛行機の安定性は低くなるもの。そのような機体を扱うには自らも空中での機体制御に長ける必要があったのです。
彼ら自身、同時代の他の飛行機開発プロジェクトは従来のグライダーに動力をつけることだけにフォーカスするあまり、機体の制御という観点が抜け落ちていると語っています。
兄弟はこれを念頭に置いた上で飛行実験を繰り返し、飛行機の設計と自らの飛行技術を洗練させていきます。
最終的に完成したライトフライヤー号は操縦性を優先するあまり安定性を欠く機体であり、後年行われた再現飛行プロジェクトはそこが悩みの種でした。1903年の快挙は、パイロットとしての兄弟の腕前なくして達成できるものではなかったのです。
潤沢な資金
いつの時代も技術開発にはお金がかかるもの。19世紀半ば以降の欧米では飛行機開発が注目されていたこともあって資金提供を受ける機会もありましたが、それでも自力である程度研究資金を工面できれば有利にはたらくもの。
ライト兄弟はまさにその利点を活用していました。兄弟はもともと自転車の製造・レンタル・販売業を営んでおり、その利益を飛行機開発に回せたのです。
兄弟が飛行機開発を本格化する1890年代、アメリカでは爆発的な自転車ブームが起きていました。このころ、前輪と後輪の大きさが揃った現代的な設計の自転車が登場したのです。
それまでの自転車は速く走れても扱いが難しく、レース用の需要が主でした。
新しい自転車は安全性が飛躍的に高まっており、日用品として価値が認められたことで市場が急激に拡大。特にアメリカでは一大ブームを巻き起こし、時流を読んだ兄弟のビジネスも急速に拡大していきました。
日本では二宮忠八という人物がライト兄弟よりも早くに飛行機設計に着手していましたが、彼は陸軍からの資金提供を受けられず、自ら工面しようとするうちにライト兄弟に先を越されてしまいます。
この事例を見るだけでも、資金面でのマネジメントの重要さがよくわかります。
まとめ
有人動力飛行を成し遂げたことでその後も長く讃えられるライト兄弟ですが、その成功は彼らだけの功績ではありません。
兄弟自身の努力に加えて、先行して理論や技術の開発に取り組んできた研究者との関連を抜きにして成功はなかったのです。
新技術はある日突然降って湧いてくるものではなく、そこに至るまでの歴史が必ず連綿と繋がっているものなのです。