高齢化が叫ばれて久しい日本社会。今や男性の平均寿命が80歳を超え、女性は90歳に近くなっています。
ただし、男女とも70歳を超えれば日常生活に何らかの支障が出始めるというデータもあります。日常生活を不自由なく送れる上限の年齢は健康寿命と呼ばれ、健やかに暮らすためにはこの健康寿命が重要になってくるのです。
老化を食い止めようという科学的な試みは昔からありましたが、最近ではセノリティクス薬と呼ばれる新種の医薬品に大きな期待が寄せられています。
セノリティクス薬とは、加齢に伴う体の変調に関わる老化細胞そのものにアプローチする医薬品。本記事では、老化細胞と体全体の老化の関係、そしてセノリティクス薬研究の現状について見ていきます。
セノリティクス薬と細胞老化
セノリティクス薬の作用について理解するには、年をとって体に不調が現れるいわゆる加齢と、細胞に起こる現象としての老化の関係を知っておくことが重要です。
最近の研究では、まず個々の細胞に老化が起こり、それがやがて体全体の不調につながっていくということがわかってきつつあります。ということは、老化した細胞を取り除けば年をとっても不調が出ないのではないか、というのがセノリティクス薬の出発点です。
細胞の老化とは、細胞が分裂を完全に停止した状態を指します。
これは古い機械が不調になるような経年劣化とは違います。研究により明らかになったことは、老化は細胞のがん対策のひとつだということです。
対して体全体のいわゆる加齢は、老化現象が起こった細胞が体の中にたまることで、正常な細胞にも影響が及んでいる状態といえます。細胞の老化現象がまず起こり、それが積もり積もって体全体の不調を引き起こすのです。
細胞の老化は、DNAの損傷やがん遺伝子の存在に反応して起こります。
DNAが傷ついた細胞が分裂すると、DNAも傷ついたまま複製され、新しい細胞へと受け継がれます。そんな細胞が増えると体全体に影響が出るので、老化を起こすことでそれを防ぐのです。
そこでまず細胞分裂を完全に停止し、不良品の細胞が増えるのをストップします。その後、細胞の骨格ともいえる細胞外マトリクスの構造変化が発生し、細胞自体の形が変わっていきます。
分裂を完全に停止した細胞からはさまざまな物質が放出されます。これはいわば免疫系へ送られるシグナル。その後、これに反応した免疫のはたらきや、細胞の自殺プログラムであるアポトーシスが起こることで、老化した細胞は体の中から取り除かれます。
細胞の老化自体は必ずしも悪いものではありません。
問題になるのは、老化した細胞がうまく取り除かれなかった場合。体内に残ってしまった老化細胞は、細胞としての正常な機能を失ったまま生き続けます。これは「ゾンビ細胞」とも呼ばれます。
老化した細胞が分泌する物質の中には、周辺の細胞への炎症を誘発するものも含まれます。これは近くにある健康な細胞にまで悪影響を及ぼすので、ゾンビ細胞がそこにあるだけで周辺の組織を痛めつけ続けます。
ゾンビのように生き続ける老化細胞が体の中にたまっていけば、その影響も深刻になってきます。これが積もり積もって、やがて体に深刻な不調が起こる、これが老化細胞と肉体全体の加齢についての現在の仮説です。
セノリティクス薬の研究アプローチ
すでに人間を対象にした治験が行われている例があるほか、製品開発にまで着手している企業がすでに存在します。
メイヨー・クリニックの治験
メイヨー・クリニックは歴代大統領や国外のVIPも治療を受けたことで知られる、アメリカでもトップクラスの総合病院。
ウェイクフォレスト大学やテキサス大学と共同で、肺線維症の患者を対象に老化細胞除去の実現可能性と安全性についての研究が実施されています。研究では14人を対象に3ヶ月間処置を行い、その間健康状態および歩行速度などの身体能力を測定し続けました。
2019年には、身体機能に有意な改善が見られたという結果が発表されています。
安全性の確認が目的の治験であったため、参加者はごく少数で、まだ踏み込んだ試験ではありません。ただ、これによって安全性が確認されたおかげでさらなる調査への道が開かれたことは大きな意味を持つでしょう。
UNITY Biotechnology
加齢に関連した病気の進行を防ぎ、健康を回復するというビジョンを掲げ、セノリティック薬の開発を進める企業。
2020年時点で、加齢性の眼病と変形性関節症の治療薬の試験を行っています。眼病の薬については人間を対象にした治験を実施中で、どちらも2020年下半期に結果が出る予定。
Senolytic Therapeutic
2017年創業、本拠はスペインのバルセロナにある医療ベンチャー企業。
主に繊維膿疱症など、加齢に関連する疾患のための新薬開発にフォーカスしています。老化細胞を除去するアプローチについての研究論文を発表するなど、その方面の研究開発を積極的に推進中。
2020年中に腎繊維症の薬の研究を進め、2021年に最初の治験を行うことを目標に開発が進んでいます。2019年にはEITヘッドスタートファンディングプログラムから5万ユーロ、2020年にはスペイン財務省から25万ユーロの資金提供を受けるなど、その成果が期待されている企業です。
まとめ
セノリティクス薬はまだまだ新しい医薬品です。
そもそも、老化細胞と加齢による疾患との関連性についてもまだまだわかっていないことがある研究途上のトピック。医薬品としての研究開発が進んでいるとはいえ、確実に効果があるか、また副作用はあるのかどうか、まだ確信を持って言える段階ではないと言えます。
歳を重ねても元気でいられるというのは誰もが望むこと。過度な期待は禁物でも、それが実現する可能性が見えてきたというのは、とても素晴らしいことと言えるでしょう。