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翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(序章~1章)-海軍再編

群狼作戦の発案者として知られるカール・デーニッツ元帥が第二次大戦前からのドイツ海軍の情勢を記した『The Conduct of the War at Sea』は、戦後になってその資料的価値に着目した米海軍情報局によって英訳され海軍内で配布された。

大戦中にはドイツ海軍の司令官を務め、ヒトラー亡き後ドイツの大統領に任ぜられたデーニッツ元帥は、第二次世界大戦前後を通して第三帝国の盛衰を目の当たりにしてきた。彼の目から見た第二次世界大戦、特に大西洋の海上戦闘についてをまとめた本書は単にドイツの敗因を語るに留まらない。
イギリスの海上輸送路への攻撃を主軸に置いたドイツ海軍の活動記録、戦備の推移、活躍また失策などを語る中で、彼は兵站という見知から海軍戦力の重要性を力説している。無人機とミサイルが飛び交い、情報技術が最前線を支える現代の戦争においても、兵站を考える上で海上輸送の重要性は色あせるどころか、一層存在感を増してきている。ドイツの敗因は海上輸送路を破壊するために海軍を有効に機能させられなかったことであり、その原因となった戦前からの認識ミスと準備不足までを含めて、今現在でも通用するような教訓が本書中には散見される。

Uボートは当時にあっても世界最高峰の潜水艦だったが、戦前からの数々の失策により、イギリスを圧倒するには至らなかった。デーニッツ元帥はそれについても子細に述べている。例えばドイツはイギリスと敵対する可能性を考慮せず、イギリスに対抗しうる艦隊を構築しなかった。海軍戦力の不利は開戦時に明白になったが、そこからUボート主体の艦隊を調えるのには時間がかかった上、航空戦力はすべて空軍に所属していたため、海空軍の連携体制を確立させるのにも手間取った。航空機による偵察は群狼作戦の要であったため、こういった準備不足でUボート艦隊が思う存分力を発揮できなかったことについて、デーニッツ元帥は深い悔恨を抱いていたことがうかがえる。

本書の英語原文は1946年に米海軍内で配布されていたもので、ドイツ語の原文を英訳したものである。それをさらに日本語訳した。当時存在した歴史的誤謬や誤解、果てはそれに基づいた誤訳などが存在する可能性は否定できないが、訳す過程で判明したものについては注をつけていく。

本書は今日の視点から見て必ずしも正確な史料ではないかもしれないが、当時を生きたカール・デーニッツという人物が見た第二次世界大戦の記録であるという点では多少なり興味深く思われる。せめて当時の状況を伺う一助になれば幸いである。

翻訳:『海上の戦争(The Conduct of the War at the Sea)』~1章

概要

1.デーニッツ元帥の手による本書をONI(Office of Naval Intelligence(アメリカ海軍情報局)の略)から刊行するのは、以下の理由による。第二次世界大戦中のドイツ海軍の行動記録として多大な歴史的価値を有し、海軍軍事学の観点からも、敵国の優秀な海軍将校であるデーニッツ元帥の意見は今後の研究、検討のために有益である。またそれに増して、海軍力の重要さを見誤るというヒトラーの致命的失策が十分な説得力を持って示されたのは注目に値する。いかなる規模の戦争にも海軍力は不可欠のものであり、同様に政治的また経済的な境界と権利を守るのにも欠かせないものである。

2.本書の分析の一助とすべく、著者の略歴、本書の背景と内容に関わる事前情報、また各章の目次(本記事では省略)を載せている。

3.本書の細目を補足するためにデーニッツ元帥への質疑応答がなされた。その内容は33-34ページ(英語原文でのページ数)に記載されている。かかる質疑応答と、本書の内容に対してのデーニッツ元帥の反応は、序文に記されている。

カール・デーニッツ元帥の略歴

1891年9月16日、エンジニアの息子としてベルリンのグリューナウで生を受ける。1910年、ドイツ帝国海軍士官学校に士官候補生として入学。1916年12月、少尉となっていた彼は志願してUボート勤務に就き、1918年にはU-25、後にはU-68の指揮を執った。1918年10月、彼はマルタにおいてイギリス軍の捕虜となり、イングランドで1年を過ごした。ドイツに帰還すると再び海軍に入る。1928年には少佐として水雷艇の艇長に就任した。1934年には巡洋艦エムデンの艦長に就任し、1935年には大佐に昇進。1935年、彼は第1潜水隊群へと転属になり、Uボート艦隊の再編成を命じられた。1939年には少将へと昇進し、Uボート艦隊の司令長官に就任した。1940年9月に中将、そして1942年3月に大将へ昇進。1943年1月には元帥に任命され、前任のレーダー元帥に替わってドイツ海軍総司令官の座につく。1945年5月にはヒトラーの後を継いでドイツ国大統領に就任し、停戦を求めた。

デーニッツ元帥は潜水艦戦術の「群狼作戦」を編み出したことで知られ、他にも潜水艦建造の監督、またイギリスの潜水艦探知技術の向上に対抗するための調査局の開設、運営も行った。彼は海上戦に関する論説や本を多数書き残している。1913年から1914年にかけて搭乗した巡洋艦ブレスラウでの経験を綴った『Die Fahrte des Breslau』(ブレスラウの航海)と、『Die U-Bootwaffe』(Uボート艦隊)が1939年頃に出版されている。
デーニッツ元帥は知能テストで天才に近い得点をマークし、明瞭にして的確、そして独創的な考えを持つ潜水艦戦闘のエキスパートだった。彼は最後まで海軍の独立性を保ち続けた。彼がナチ党に興味を持ったのは1930年のことで、ナチ党の力があればドイツは世界の檜舞台に返り咲けると信じてのことだった。ヒトラーとの関係は良好だったが、カイテルとゲーリングとはそりが合わなかった。Uボート乗りたちは彼を「Der Loewe(ライオン)」とあだ名していた。

1945年10月には彼の兄弟のうち、肉屋と郵便局員だった二人がハレ・アン・デア・ザーレに住んでおり、農業を営んでいたあと二人の兄弟がそれぞれベルリッツとアルベルスローダに居を構えていたという報告がある。デーニッツ元帥の二人の息子はどちらもUボートの乗組員として第二次世界大戦に従軍している。

まえがき

第二次世界大戦中のドイツ海軍の戦いぶりに関するデーニッツ元帥の批評とその敗因についての意見は、よく取りまとめられた内情暴露といえる。文章中には明らかに敗戦国の海軍将校による合理化といえる部分があり、相互の議論の末に便宜上不問となった国際法違反(※注1)があったとはいえ、本書はなお、海軍史と海戦戦術を学ぶ者にとって慎重な議論に値する。本書は史料であり、同時に専門家による重要な論文である。

それに増して特筆すべきは、戦時における海軍力の重要性について反論の余地のない議論を運ぶその説得力であろう。過去においてはもちろん、未来において、たとえ核保有国同士の戦争であっても、海軍力に対しては兵站上の重要事項として徹底した考慮が払われるだろうとデーニッツ元帥は力説する。彼は徹頭徹尾率直に、ドイツ海軍の数々の弱点を認めている。例を挙げると、第三帝国の政治理念上の失策により、開戦当初Uボートの総数は絶対的に不足していた。さらに艦船の建造よりドイツ空軍の拡充を優先したため水上艦の戦力を増強できず、海軍戦力の不足はイギリス本土侵攻が「延期」された主たる要因の一つになった。

群狼作戦の成功は船団発見のための偵察にかかっていた。偵察に航空機を使うのは理にかなっていたが、海軍の航空支援はドイツ空軍に依存していた。やがて海軍からの圧力により、Fw200を擁する飛行中隊がUボート艦隊の指揮下に入ったが、成果が出るのはデーニッツ元帥曰く、痛ましく遅かった。通信時に用いる共通の用語や連絡手段の設定、両軍の相互理解の確立、そして洋上飛行と識別および正確な発見報告のためパイロットを訓練することが不可欠だったが、その過程での連携不足と時間の浪費が原因だった。デーニッツ元帥曰く、海軍の航空戦力の不足は海戦を行う上でドイツ軍の決定的不利をもたらした。そして換言すれば、海軍が独自の航空戦力さえ保有していたならば、1941年のUボート艦隊の戦闘結果は大きく変わっていただろうとも語る。

強大な陸軍力を誇ったドイツだったが、その海軍力はイギリス本土へ侵攻するには不足だった。戦力を調えるにあたって、ヒトラーはイギリス海軍が重大な脅威であることを見落とした。結局決め手となったのは連合軍の海軍力である。

第二次世界大戦は兵站の戦争だった。ヨーロッパに人員と軍需品を運び続けて骨を折った歳月こそが、連合軍に勝利をもたらした。世界規模の戦争に於いて最低限必要と考えられるだけの海軍力をもしドイツが有していたなら、大西洋でドイツはどれほどの戦果を上げたことだろう、そして連合軍の輸送船の被害はどこまで広がっていただろう?

本書の原文はデーニッツ元帥が口述した内容をヨードル上級大将がタイプして作成した。本書はその英訳である。読みやすさを目的に編集を加えているが、最小限にとどめている。翻訳および編集にあたっては、著者の視点と、また専門家としての意見が齟齬なく伝わるよう細心の注意が払われている。

デーニッツ元帥が語っていない結論を明確にする目的で、イギリス海軍情報局により本書の要約が作成された。デーニッツ元帥は英語があまりわからない風に振る舞っていたが、「素早く読了して、一度二度悲しげな笑みを見せた。彼の最奥の思考があまりにも明瞭に理解されていたことに動揺していたように見えた。そして、この評論に修正すべき箇所はないという意を示した」

第一章
1933年1月30日から1939年9月1日

アドルフ・ヒトラーが権力の座についた1933年1月30日当時、ヴァイマル共和国軍(※注 英語原文ではwehrmachtとあるが、これは1935年以降の呼称でドイツ国防軍と訳すべきものであり、1933年当時はヴァイマル共和国軍(Reichswehr)という呼称だった)は弱体そのものだった。陸軍の兵力は100,000人で、空軍は存在しない状態。海軍の兵力は15,000人で、艦艇の数はヴェルサイユ条約で許可された数にも満たなかった。当時海軍は6000トンの新型軽巡洋艦を6隻保有。水雷艇は12隻が新造され、駆逐艦と水雷艇を合わせて許可された保有数である24隻に届いたという状態(※注2)。ドイッチュラント級のポケット戦艦はドイッチュラントただ1隻が完成していたのみで、2隻の同型艦アドミラル・シェーアとアドミラル・グラーフ・シュペーは建造途中だった。条約の取り決めではもう3隻のポケット戦艦を保有できたが、建造命令は出ていなかった。

ヒトラーの政策のひとつに、十分な戦力を有するドイツ国防軍を創設し、国家の利益を代表させるというものがあった。ヨーロッパの中央部に位置するドイツにとって、再軍備にあたってまず注力すべきは必然的に地上戦力、すなわち陸軍と空軍になった。防備が薄い広大な国境線を防衛する役目は空軍にのみ可能なことで、こうして非友好的な周辺国に対して守りを固めることは国内の立て直しの第一条件だった。結果的に、海軍の軍備に対する要求も変わっていく。

ソ連こそがドイツとヨーロッパの不倶戴天の敵と考えていたヒトラーは、イギリスとの政治的合意に腐心していた。それが追い風となり、結果として、強力な海軍力を有する国々が将来ドイツと敵対することはないとみなされた。

1935年の英独海軍協定締結をもって、ヒトラーの政策は完成をみる。この協定により、ドイツ海軍の軍艦保有量はイギリスの35%(Uボートは50パーセント)と定められた。これはつまりイギリス海軍に対抗する戦力の保有を自ら放棄したのであって、ドイツがイギリスとの戦争を考慮していなかったのは明白である。

この協定でドイツ海軍は広範にわたる制限を受けたが、それを抜きにしても、艦種の偏りがなく小規模でバランスの取れた海軍を創り出すという方針で艦隊編制は進められた。大陸上の隣国(フランスとソ連)に対抗しつつ、他の強力な海軍国と同盟を結びやすい状況を作るのが狙いだった。これはまた、第一次世界大戦の戦訓もあって、すぐさま巨大なUボート艦隊を構築しなかった理由でもある。構築されたのは各艦種をバランスよく保有した艦隊で、Uボートは全体のごく一部分にとどまった。

海軍情報部も主に大陸上の強国に対しての活動を命じられ、イギリスからの情報の照合は軽視されていた。

海軍内部の改革と艦艇の建造は平行して進められた。15,000人の海軍兵士は、訓練を積んだ下士官や水兵たちの中心的存在として重んじられた。将来の新造艦にクルーが対応できるよう、既存の艦はほぼ訓練のためだけに用いられた。大きな問題は発生しなかった。1935年から1939年にかけてドイツの国益保護のため結構な戦力をスペインに派遣していた間、近海での訓練に支障をきたしたことがあったが、近海では得られなかった洋上経験を多くのクルーが得るよい機会となり、まんざら無駄ではなかった。

技術開発は資金不足のため滞っていたが、1933年以降は精力的に推し進められた。海軍の技術者達は短い期間で魚雷と機雷の研究を飛躍的に進め、一級の性能を発揮するすぐれた兵器を開発したと豪語していたが、実際に効果を上げたものはごく一部にとどまる。単純な磁気信管で動作する沈底機雷は開戦初期に多大な効果を上げたが、イギリス軍が磁気機雷への有効な対応策を取り入れると、次に打つ手はなかった。さらなる新技術開発は進められていたが完成には至っておらず、実戦投入は遅々として進まなかった。1944年にようやく実戦投入されたものもある(オイスター機雷や音響機雷)。魚雷の磁気信管には多大な期待が寄せられたが、実戦で誤作動を起こし、その欠陥が露呈した。短波を利用した位置探知技術の研究開発も進められていたが、後に判明するように、この領域で連合国が到達していた技術レベルにも達することなく終わる。海上戦闘を行う上で決定的不利な状況にあったというのに、戦前のわれわれはそれに気づかなかった。ともあれ他の海軍軍事技術の分野においては成果を上げ、大規模な武装解除の末無力化されていた軍の機能をある程度回復できたのもまた事実で、特にUボートは潜水艦としては世界一との自負があった。

開戦当時、ドイツ艦隊はまだ再編の初期段階にあった。艦艇の数はロンドン海軍軍縮条約で許可された数にも遠く及ばなかった。ビスマルクとティルピッツはまだ建造途中で、本物の戦艦といえるものはまだ1隻もなかった。

1933年以降に就役した艦は次の通り:
 戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウの2隻
 ポケット戦艦アドミラル・シェーアとアドミラル・グラーフ・シュペー
 重巡洋艦アドミラル・ヒッパー
 1934型駆逐艦と1936型駆逐艦合わせて22隻
 1935型水雷艇数隻
 Ⅱ型、Ⅶ型、Ⅸ型Uボート合わせて約48隻

大戦勃発時点で建造途中だった艦は次の通り:
 戦艦ビスマルクとティルピッツ
 空母グラーフ・ツェッペリンと「B」(注3)   
 重巡洋艦ブリュッヒャー、プリンツ・オイゲン、リュッツオウ、ザイドリッツ
 駆逐艦8隻
 水雷艇数隻
 Uボート数隻

ヴェルサイユ条約で空軍を完全に廃止されたため、空軍の編成は一からのスタートとなった。このことがあって、自前の航空戦力が欲しい海軍からの精力的な働きかけにも関わらず、ヒトラーは海軍の航空戦力もドイツ空軍内で編成することに決定した。こうなると開発する航空機の種類を精選せねばならず、またその他の航空学上の問題も持ち上がった。開戦当初には海軍機部隊が多数存在していた。戦術上の目的から、これらの航空部隊は開戦初期に海軍の指揮下に置かれていたが、所属はあくまでドイツ空軍だった。少数の戦闘機隊を除いて、そういった部隊は水上機と飛行艇しか有していなかったが、戦局が進むにつれ失策だったと判明する。水上機では要求されるだけの成果を上げることはできず、一方で地上基地から発着する航空機を設計する際に海軍の逼迫した事情は十分考慮されなかった。

続く

 

脚注

注1)  ニュルンベルク国際軍事裁判で糾弾された無制限潜水艦作戦とそれにまつわる国際法違反のことと思われる。アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツがアメリカも同様の行為を行ったという証言を行い、結局この件では無罪とされた)

注2)原文ではヴェルサイユ条約下での水雷艇の保有数が24隻であるかのように書いてあるが、実際は排水量800トン以下の駆逐艦12隻、200トン以下の水雷艇12隻という取り決めで、駆逐艦と水雷艇をまとめた数を書いているものと思われる。建造されたという12隻の水雷艇は時期と建造数から見てZ計画で建造された1923型と1924型水雷艇だと思われるが、排水量の関係からヴェルサイユ条約下では駆逐艦として扱われていた。ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄した後、排水量2000トン級の1934型駆逐艦が建造されると、1923型と1924型水雷艇は駆逐艦から水雷艇に分類されるようになった)

注3)グラーフ・ツェッペリンの同型艦。ドイツ海軍では進水前の艦艇には名称が与えられず、「B」と呼ばれていたこの艦は結局建造途中で廃棄された。
◯参考資料:
The Conduct of the War at Sea : Introduction – SECTION I
(http://www.uboatarchive.net/Misc/DoenitzEssay.htm)
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