ドイツがノルウェーに侵攻した話は有名です。しかし、ノルウェーにおける戦いは、主に侵略者ドイツ軍に対する連合国の立場で語られがちです。
「ドイツが侵攻し、連合軍が遠征部隊を派遣してノルウェーから撃退しようとした。しかし、フランス方面の苦戦で連合軍は撤退。ノルウェーはドイツに奪われてしまった」
事実ではありますが、ドイツ海軍がこのノルウェー戦でどれほど苦戦したかについてはあまり知られていません。遠征艦隊の壊滅、孤立無援の占領軍、不具合だらけの魚雷。
このノルウェーの戦いで、ドイツ海軍に何が起こったのでしょう?
前回:「翻訳:「海上の戦争」、群狼作戦立案者のデーニッツ元帥の小論(2章)」
翻訳:『海上の戦争(The Conduct of the War at the Sea)』―3章
1940年4月から1940年10月
ノルウェーに対する海軍の方針は、同国の中立が保たれることがドイツにとって最善であるという意見がその根本にあった。しかし同時に敵もノルウェーの中立性を尊重しなければそれは成り立たない。その理由として、海軍の限られた戦力ではノルウェー沿岸の海上輸送を満足に防衛するのは不可能だと見られていた点が挙げられる。イギリス海軍は近在の基地から簡単にノルウェー沿岸までたどり着くことができ、望みの時間と場所を選んで海上輸送の妨害が可能なのだ。また一方で、ノルウェーがイギリスの影響下に入る事態はなんとしても避けねばならなかった。もしそうなれば北海は封鎖され、バルト海に入る船への脅威となる。
1940年春、ノルウェー領海内で補給船アルトマルクがイギリスの駆逐艦コサックに撃沈された。この行動は国際法に反するもので、イギリスがノルウェーの中立性を尊重する意志がないことは明白だった。同じ頃ノルウェーから、イギリスが同国に侵攻する準備を進めているという報告が数多く寄せられていたこともその懸念を強めていた。ノルウェー占領のために入念な準備を進めるのが賢明だと思われた。レーダー元帥の進言もあってヒトラーから命令が下り、すぐさま行動に移される。機密保持のためにあらゆる手段が用いられた。
1940年4月になると、イギリスのノルウェー侵攻が差し迫っているという報告がいよいよ増えてくる。その頃にはわが方の準備も整っていて、作戦開始は4月9日を目処とした。戦力で負けるドイツ海軍にとってはかなりの賭けだった。しかしノルウェーを奪われれば対ドイツ包囲網の重要拠点として活用され、反対にドイツの手中にあれば艦船、特にUボートの拠点として機能する。その戦略的価値はリスクに見合うものとされ、戦闘可能な海軍戦力をすべて投入するという決断は、それを十分に認識した上でなされた。
ノルウェーの主要港占領に必要な武器装備、また兵員を輸送するだけの艦艇が不足していたため、必要な積み荷を載せた商船が作戦開始に間に合うように先んじて港を出た。船は偽装を施さないままシュチェチンで荷を積み、東プロイセンへの輸送という名目で出港したが、4月7日か8日、ノルウェー南西を航行中にイギリスの潜水艦から攻撃を受け、数隻が失われる。この攻撃のこと、及び生存したドイツ兵が上陸したことがノルウェーのラジオで報じられ、作戦全体が危ぶまれた。それ以降イギリスの目立った動きはなかったが、ノルウェー各地(オスロ、ベルゲン、クリスチャンサン)でのレジスタンス出現はこの報道に起因すると思われる。以降の輸送は大幅に遅れ、目的地への到着が遅れるばかりか荷が届かない事態まで発生し、結果ベルゲンでは武器弾薬の不足が起きる。
作戦にあたり、艦隊は以下のように編成された。
ナルヴィク行き:駆逐艦10隻 指揮官はボンテ代将
トロンハイム行き:重巡洋艦アドミラル・ヒッパー及び駆逐艦4隻 指揮官はアドミラル・ヒッパーの艦長ヘルムート・ハイエ大佐
ベルゲン行き:軽巡洋艦ケルン、ケーニヒスベルク、練習艦ブルメル※1、水雷艇数隻。指揮官はブルメル中将
クリスチャンサン行き:軽巡洋艦カールスルーエ、水雷艇複数。指揮官はカールスルーエの艦長。
オスロ行き:重巡洋艦ブリュッヒャー、アドミラル・シェーア、軽巡洋艦エムデン、水雷艇複数。指揮官はクメッツ少将。
※1(注)ベルゲンに向かったのはブルメルでなく、砲術練習艦ブレムゼ。練習艦ブルメルは確かにノルウェー侵攻に参加していたが、侵攻部隊ではなく輸送船隊の指揮艦として。
艦艇には最大限の兵員を乗船させ、支援用にリュッチェンス少将率いる戦艦シャルンホルストとグナイゼナウの2隻を西部フィヨルドの西方に配置した。
1940年3月の時点で、Uボートは作戦海域(第2章に記載)から引き上げられた。ノルウェー侵攻を見越してのことで、イギリス艦の侵入を防ぐためノルウェー各所の沿岸に配置された。
ドイツはまもなくデンマークを占領。これには補助艦艇や練習艦など、小型の艦艇が投入された。
ノルウェー侵攻は成功裏に終わったが、手痛い損害もあった。オスロから南にあるドロバック海峡で重巡洋艦ブリュッヒャーを、スカゲラックにて軽巡洋艦カールスルーエを喪失。またベルゲン突入の際、軽巡洋艦ケーニヒスベルクが損傷する。
軍令部もUボート艦長も、Uボートの多大な戦果を期待していた。港湾に至る水路が狭いこと、また敵の反撃が予想されたことから交戦の機会は多くなると見られていたが、その期待は大きく裏切られる。原因は魚雷の不具合で、開戦時には魚雷の不足が明らかになったが、ノルウェー侵攻時には魚雷の欠陥が痛ましい形で明らかになった。長時間に及ぶ会敵でUボートが長い間潜水していると、魚雷のデプスチャンバー※2内の圧力が高まり、走行深度が設定より深くなってしまうのだ。プリーン大尉がハーシュタ付近でイギリスの大規模な船団に向け至近距離から雷撃を行ったが、魚雷が深すぎて命中しなかったという事例がある。かなり後になってドイツ海軍は系統的な調査を行い、魚雷の技術的不良についての記録が集積され、雷撃失敗の増加の原因がようやく明らかになった。雷撃の機会は数多くあったが成功はごくわずかで、魚雷への信頼は失墜し、Uボート艦長は乗員のモラル回復に努めねばならなかった。同時に魚雷の不具合に対して可能なあらゆる対応策が取られた。
※2(注)内部を1気圧(=深度0の水圧)に保った密閉機構のこと。この内部の気圧と魚雷にかかる水圧の差で魚雷の走行深度を測定していた。
4月12日から13日にかけて、スカゲラク海峡において多数の輸送船がイギリスの潜水艦と航空機の攻撃を受けて損傷ないし沈没。ノルウェー侵攻作戦の脅威となったが、適切な防御策のおかげで事態は終息をみる。以後スカゲラク海峡で確認されたイギリス潜水艦は漸減、やがて極小数となり、航空機による被害も1944年末まではごく軽微なものにとどまった。
ナムソスからのイギリス軍の攻撃を退けたことで、ハーシュタから上陸した敵の攻勢はあらかた制圧されたが、唯一ナルヴィクでは予断を許さない状況が続いた。ナルヴィクにおけるイギリス海軍の攻撃で、ドイツは新鋭駆逐艦を10隻喪失。深刻な燃料不足で満足な戦闘力が発揮できずに喫した敗北だったが、生き残った乗員は地上部隊と合流して戦闘を続けた。彼らなくしてナルヴィクは持ちこたえなかっただろうとは、ディートル上級大将の言である。
イギリス軍は着々と進攻を続け、ナルヴィク陥落も必至と思われたが、敵は突如ノルウェーから撤退を始めた。当時連合軍はオランダ、ベルギー、フランス、そしてダンケルクからの撤退を行っていたため、その影響があったのだろう。
この時北方の海域に展開していたドイツ艦艇は撤退するイギリス海軍の追撃に向かった。司令官が重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと護衛の駆逐艦隊を燃料補給のためトロンハイムに向かわせた後、戦艦シャルンホルストとグナイゼナウは英空母グローリアスと2隻の駆逐艦を攻撃。3隻とも撃沈したが、シャルンホルストが雷撃を受ける。
ノルウェー沿岸の海上輸送路はイギリス海軍と空軍の深刻な脅威にさらされていたが、輸送路の維持はノルウェーの確保には不可欠であり、さらにイギリスが奪回に動いた場合にも備えるべく、強固な沿岸防御の構築がすぐさま開始された。長大な沿岸を隙間なくカバーするのは不可能だったため、できるだけ短い間隔で防備付きの基地を配置し、危険が迫った場合に商船が逃げ込めるようにした。また主要な基地は要塞化され、Uボートや艦艇の拠点としての設備が設けられた。当初は不安もあったがこれは成功を収める。ノルウェー沿岸の輸送は大規模かつ非常に重要なもので、戦争全体を通して驚くべき成功を収めたが、末期の数ヶ月には被害が広がっていった。またノルウェー南部とバルト海への進入路の防衛のため、スカゲラク海峡西部に機雷原が敷設され、戦局の推移にともない拡張されていった。
海軍の戦力は基本的にノルウェーに留まっていたため、西方の作戦では活躍の機会は少なかった。戦線の急速な拡大のため、ダンケルクから撤退するイギリス軍を叩くために満足な戦力を動かせず、少数のEボート※3が出撃しただけで成果も微々たるものだった。
※3(注)Eボートとは、シュネルボート(Sボート)の英国側の呼称。魚雷を搭載した排水量100トン以下の小型艇で、快速と長大な航続距離を誇る。通商破壊などに従事。
オランダ、ベルギー、フランスを占領したことで、ドイツは第1級の海軍戦略拠点を得る。これらを一日も早く拠点として活用すべく手が尽くされた。
ノルウェー占領後大西洋でUボートの通商破壊戦が再開されたが、状況はかなり良くなっていた。ビスケー湾の港を確保したことで長距離航行の必要がなくなり、Uボートの行動半径に余裕ができた。航路は以前よりずっと近くにあったといえる。1940年7月には大西洋で活動するUボートの補給・修理基地としてビスケー湾の港湾を活用できるよう、Uボート司令部は多大な尽力を行った。航行距離の短縮という利点はすぐさま、作戦海域で活動するUボートの数が倍増するという成果をもたらした。
1940年10月までの間、通商破壊戦は比較的成功を収めたといえる。イギリスの駆逐艦や海防艦はノルウェーでの戦いで損傷して修理中であるか、でなければ本土防衛のためイングランド南岸部から動けなかったことから、1940年夏の海上輸送路の防衛はたいへん手薄だった。ビスケー湾から出撃したUボートはイギリスに近いノース海峡やブリストル海峡で行動できたため、すぐさま輸送船を発見できた。Uボートの損失はごく軽微で、技術的問題の解消も進んでいき、魚雷は接触信管を装備した信頼性の高いものだけが使われるようになる。この時点では沿岸付近で簡単に輸送船を発見できたため、Uボートはまだ単独で行動していた。
デンマーク湾を通ってグナイゼナウとアドミラル・ヒッパーをビスケー湾まで航行させるという案があったが、出航前にグナイゼナウが雷撃を受けたことで実行には移されなかった。
1940年春に最初の仮装巡洋艦隊が大西洋とインド洋へ出撃し、1940年夏にはさらに別の一隊が北極海航路で太平洋へと向かった。イギリス海峡沿岸を手中に収めたことで、イギリス本土の東南沖にまでEボートが通商破壊に向かうことが可能となった。
ノルウェー遠征でイギリス海軍は打撃を受け、さらにイギリス本土の地上戦力は脆弱。この状況で、早期にイギリスへ侵攻して大勢を決するべしという意見が醸成された。しかし開戦前の状況は前述のとおりで、さらに西方の状況が急激に展開しすぎたこともあり、準備は全く整っていなかった。侵攻は直ちに、遅くとも秋までには行わねばならない。直ちに物資と訓練の両面で準備を開始せねばならず(これはヒトラーが直々に命令を下している)、可及的速やかに、現状で打てるあらゆる手が尽くされた。マリーネフェーアプラーム※4の設計は完了していたものの、物資と建造ドックの都合上、新型の揚陸艦を多数、しかも作戦に間に合うよう建造するのは不可能だった。そこでタグボートや、沿岸および内陸部での水運に使うはしけを最大限活用することとなる。それらの船に上陸用の改造を施すのだが、ほとんどは自力航行ができないため曳航を必要としたこと、及び堪航性が低い(最高でも3)という大きな欠点があった。イングランド南岸の上陸地点調査、そしてイギリス海峡の潮流と気候の調査が行われた。上陸に向けての兵員の訓練期間が延長されたが、これは必要な物資がより多く手に入ったためと、戦術上の準備を万全にするためだった。
※4(注)ドイツ海軍の上陸用舟艇。英本土進攻作戦(あしか作戦)のために設計され、1941年4月に1隻目が就役して以降、終戦までに約700隻が建造された。
イギリス本土侵攻には条件がかなり限られてくることは、指導者たちには最初から明白だった。イギリス海軍が全戦力を投入することは必至とみられたが、その攻撃から上陸部隊を守ることはドイツ海軍には不可能であったため、その役目は空軍に託される予定だった。しかしそのためには英国空軍の壊滅のみならず、上陸地点に近い港を事前に攻撃してイギリス艦艇を遠くの基地まで退避させる必要があった。近在の基地から艦艇による夜襲をかけられると、空軍では上陸部隊を防衛できないからだ。
1940年9月に侵攻の準備は整ったが、不可欠の条件とされた英国空軍の壊滅は果たされていなかった。しかし作戦の延期など問題外とされた。なぜなら作戦成功には長期間の好天が欠かせないが、10月になると強風が吹き続くため、それは望むべくもなくなる。1941年の春まで延期すれば軍事情勢はさらに悪くなるだけだと見込まれた。成功の目算がこれだけ小さくなれば、イギリス本土侵攻こそが戦争勝利のための唯一かつ決定的な手段というわけでもない限り決行する意義は小さい。このころドイツの指導者たちは地中海にてイギリスに決定的打撃を与える可能性をみていたのだ。Uボートの総数増加、および空軍の協力により次第に成果が上がっていた通商破壊戦とは全く関係のない話であるが。
かくてヒトラーは侵攻を中止したが、イギリス本土侵攻がありうるという威嚇は後々まで続けられた。
The Conduct of the War at Sea: SECTION III
(http://www.uboatarchive.net/Misc/DoenitzEssay.htm)