動物園にはカンガルーやコアラという可愛らしい動物がいます。彼らはお腹に子育てのための袋を持ち、イヌやネコ、サルやシカなどとは大きく変わった子育てをするのですが、その細かなプロセスについてはよく知られていません。
実は、カンガルーやコアラは、哺乳類は哺乳類でも「有袋類」という特殊な種に分類される哺乳類です。地球上の哺乳類の9割以上が人間やイヌ・ネコと同じ有胎盤類に分類される中で、彼らの生態は私達がよく知る動物からかけ離れています。
そんな有袋類の子育てについて、簡単にご紹介いきましょう。
2023年8月3日加筆
有袋類は哺乳類の中でも特殊な種
哺乳類は子供を乳で育てることからその名前がついています。逆に言えば、乳で育ててさえいれば哺乳類に分類されて良いわけです。卵を産もうが、未熟児を産もうが、すぐに歩けるほどの大きな子供を産もうが、乳で育てている限り哺乳類です。
というのも、シカや馬のように生後すぐに立って歩けるまでに成長した状態で子供が生まれてくるような哺乳類がいる一方で、胎内で子供を成長させずに、卵を生むカモノハシのような哺乳類もいるからです。そして、その中間とでも言うべき、「胎内で全く育てないわけではないけれど、あまりにも小さな未熟児を産む」哺乳類もいて、それがカンガルーやコアラなどの有袋類なのです。
カンガルーやコアラは、その代名詞とも言うべきお腹の袋(育児嚢)に子供を入れた状態で育児を行いますが、実はあの袋が子宮や胎盤の代わりだということはあまり知られていません。有袋類は人間やウマが持つような胎盤がない上に、子宮や骨格もお腹の中で大きな子供を育てられるような構造にはなっていないのです。
お腹の中で成長できない有袋類の子供は、直腸と尿道と産道を兼ねた小さな穴(総排泄孔)を通れるギリギリの大きさで生まれてきます。生まれた子供にはろくな目や鼻や耳も無く、乳を吸うための大きな口と袋の中の乳首に辿り着くための小さな手足があるだけです。
人のような有胎盤類の赤ん坊とは比べ物にならないくらい小さな赤ん坊で、それこそ小さな芋虫のように見えるでしょう。
このことからも分かるように、有袋類というのは人が良く知る哺乳類(有胎盤類)とは大きく違った生態を持っているのです。
有袋類の変わった生殖活動
有袋類は、まず生殖活動や生殖器からして人間やウマのような有胎盤類とは大きく異なっています。
まず、雌の子宮や膣は1つだけではありません。多くが複数の子宮や膣を持っていて、同時に複数の精子を保持する事ができるようになっています。また、オスの生殖器も二股に分かれている(コアラなど)事があり、複数の膣に同時に射精ができるのです。
これは受精確率を大きく引き上げる事ができるメリットがありますが、これは有袋類独自の機能です。受精後に子宮が大きく膨らむ有胎盤類で複数の子宮を持つのは難しいでしょう。
また、先ほども触れたように有袋類の雌は尿道・産道が一つにまとまって(直腸だけ別)おり、これは「総排泄孔」と呼ばれます。人間などの有胎盤類の多くが、全て別々になっているのとは対象的ですね。
受精後、子供が胎内にいる妊娠期間は僅か一ヶ月。一ヶ月で母体に比べて極めて小さな赤ん坊が生まれます。さらに、カンガルーは受精後に受精卵の成長を途中で止める事ができます。そして、受精卵の成長を止めたまま袋の赤ん坊に乳をやり、赤ん坊が袋から出た段階で受精卵の成長を再開して妊娠を始められるという変わった能力があるのです。
この能力を利用すれば、出産直後のお腹の袋に赤ん坊が入った段階での交尾が可能で、子供を育てていない期間を最小限に留める事ができるようになります。子宮で大きくなるまで育てる有胎盤類では、決して真似できない芸当といえますね。
(次ページ:未熟児のまま生まれてくる子供)
未熟児のまま生まれてくる子供
そうして未熟なまま生まれてしまった子供はどうなるのでしょうか?
成体が大きな体を持つカンガルーやコアラでさえ、赤ん坊の大きさは僅か1-2cmで体重は1g前後です。少し油断しただけで潰してしまうことでしょう。そのため、カンガルーやコアラは出産時に仰向けになるなどして、子供が袋に入りやすい姿勢を取ります。
親は産道から袋までのルートに唾液をつけるなどをして道を示し、子供は総排泄孔(産道)から出ると僅かな手がかりを頼りに袋を目指して這うように母親の体の上を進んでいきます。この時はかなり危険な状態で、何らかの外的刺激が原因で赤ん坊が死んでしまう事もあります。
無事に袋に入った赤ん坊は、今度は袋の奥にある乳首を探し始めます。乳首を無事に見つけられた赤ん坊は、そこにガッチリと吸い付いて、後はある程度成長するまでそこから離れません。
カンガルーやコアラの子供が袋の外から顔を出している光景を時折見かけますが、これはほとんど成長しきった状態になってから見られるもので、袋の中にいる期間の大半が乳首に吸い付いたままの未熟児の状態です。また、この期間には袋の出入り口はしっかりと締まっていて、異物の出入りが出来ないようになっています。
優れているように見える有袋類の子育て
有袋類の子育ては、有胎盤類に比べて母体の負担が少ないのが特徴です。
出産時に大きな子供を体の外に出す必要はありませんし、子宮を大きくしたり胎盤の形成に体力を使う必要もないからです。有胎盤類の場合は出産時に体力を使いきった母体が死んでしまうこともありますが、有袋類では稀です。また、小さな子供を体についた袋の中に入れるので、卵生動物のように卵の状態で外敵に襲われることもありません。
妊娠期間も極めて短く、子供は外に出るまでの大半の期間を母体の体外で過ごします。これは大きなメリットで、母体が栄養不足に陥るなどの危機に瀕した際、妊娠期間の長い有胎盤類では母体と子供の双方が危険な状態に陥るケースが多いですが、有袋類では乳を出さないことで栄養を保持し母体を守る事ができます。
ある意味、子供の成長を体外で行うことで母体の生存率が高まっているのです。
一見優れているように見える有袋類の子育てですが、有袋類はオーストラリアを除いた世界中の地域で有胎盤類との生存競争に敗れて大半が絶滅してしまいました。
頭蓋骨が小さいまま出産すると脳が小さくなる
実は、有袋類の育児方法には致命的な欠点がありました。
子供が未熟で小さい状態のまま出産せざるを得ないため、頭蓋骨が十分に成長できず、脳の容量が小さくなるのです。
出産時、有胎盤類の赤ん坊では頭部が非常に大きな割合を占めています。つまり、頭部が大きければ大きいほど出産が難しくなりますが、将来的に大きな脳を持てるようになるということです。これは出産後の成体の能力に大きな影響を生みます。
また、出産後に他の体の部位と比較して頭蓋骨だけがどんどん大きくなっていくことはなく、出産時の頭蓋骨と体の比率に応じた頭蓋骨のサイズとなります。そのため、出産時にできるだけ大きな頭蓋骨を持った子供を産むことが重要なのです※。
事実、有袋類は同系統の体格を持つ有胎盤類の動物と比較して脳が小さく、多かれ少なかれ身体能力や知能に差が出ています。これが餌の取り合いや縄張り争いに影響し、有袋類が有胎盤類に敗れる結果に繋がったと考えられています。
オーストラリアでは有胎盤類の種類が少なかったこともあり、有袋類が繁栄しましたが、それ以外の地域では有袋類は殆ど繁栄しませんでした。ただし、北米ではオポッサムという有袋類が生存競争に勝ち残って元気に生活しています。
※あくまで頭蓋骨の比率や骨格比的な問題で脳が小さくなるのであって、人間の未熟児だからといって脳が小さくなるということではありません。
有袋類は哺乳類の可能性を見せてくれた
大半の地域で生存競争に敗れて絶滅してしまった有袋類ですが、彼らの子育てからは学ぶものも沢山あります。
実際、有袋類の子育て方法は有胎盤類の子育てよりも優れた部分がたくさんあると考えられており、成体の能力が存分に発揮できないような過酷な環境下であれば有袋類が生き残るのではないかという仮説もあるほどです。
子育ての袋というのは非常に賢い選択なのでしょう。
袋というほどではありませんが、人は未熟児のための保育器を開発しています。この保育器は、子供をしっかり守りつつ栄養などを与えることが出来る機能を持ち、まさに人が作った育児嚢と言えるでしょう。
環境が激変して満足に子供を育てられなくなった時、人々は彼ら有袋類の知恵を駆使して生き残りをかける時がくるかもしれませんね。
近年では、有袋類の研究を通して、人間の脳の発達への理解を深められる可能性が出てきています。
前述のように非常に小さい未熟児の状態で生まれてくる有袋類の赤ちゃんは、生まれた後で脳の大部分が発達していきます。クイーンズランド大学の研究者は、フクロネコの仲間の赤ちゃんを対象に、脳の電気的活動を記録しました。
記録を見ていくと、有袋類の赤ちゃんの脳活動には、人間の胎児に見られる脳活動と似たパターンがあることがわかりました。研究を主導したロドリゴ・スアレス博士によれば、有袋類の脳の発達を研究することで、いずれは人間の胎児の神経発達障害や自閉症スペクトラム障害について理解を深める手がかりが得られると語っています。