Coinhiveが抱える問題、広告を見るか、CPUに負担をかけるか

逮捕は妥当なのか

こちらの記事では、Coinhiveの使用が不正指令電磁的記録供用に当たるかどうかは「不正な指令に係る電磁的記録」に該当するかどうかが論点になると解説されています。

実はこの「不正な使用」とは、定義があやふやなものなのです。

「ユーザーの意図に反する動作をさせる指令」を字義通りに解釈するのであれば、日本語入力ソフトの誤変換もこれに当てはまり、したがって犯罪になり得るという意見も存在します。もちろん現実的にそこまで犯罪に含めるのは無理があるため、「ユーザーの意図に反する動作」であっても社会的に許容されるのであれば該当しないとされています。要を言えば、罪に問われるかの尺度は常識や社会通念が決め手になるということです。

これに照らしてCoinhiveの使用を不正指令電磁的記録供用罪に当たると判断するならば、それは事実上「Coinhiveは社会的に許容されていないから罪になる」と言っているに等しいはず。とすると、もし将来的にCoinhiveが社会に受け入れられたなら、以前は犯罪であったことが法改正も何も経ずに犯罪とはみなされなくなるということになるのでしょうか。

事件の当事者となった方は、Coinhiveでマネタイズしていることを通知してはいませんでした。プログラムを走らせるにあたって同意を得ることが重要であり、この点で同意を得なかったことが問題だとする意見も確かにあります。

とはいえ現在のウェブサイトが広告でマネタイズしている旨を通知しないまま広告を表示することが許容されていることを考えると、逮捕に至るほどの落ち度であるかどうかは易々と判断できるものではないでしょう。

Coinhiveは社会的に受け入れられるべきか

結論から言うと、ユーザーのPCに対し過大な負担を強いることのない限り、受け入れられても問題はないと考えられます。

とはいえそうなるためには、オンラインのコンテンツは無料で運営されているわけではないこと、ユーザーは常にそれに対して何らかの形で支払いを行ってきたという認識を誰もが持つということが前提になってきます。

オンラインのコンテンツはデータを保持し、個々人のコンピューターからのアクセス要求を処理するサーバーコンピューターがなければ成り立ちません。サーバーコンピューターは当然電力を食いますし、サーバーのデータ保守に当たる人間の人件費もタダではありません。

それなのにオンラインのコンテンツに無料でアクセスできるのは、ひとえに広告のおかげです。

ウェブサイト内に設置した広告をユーザーが踏めばウェブサイト所有者の収益になります。十分なユーザーがウェブサイトを訪れて広告をクリックし、広告収入がもろもろの費用をペイできるまでになれば、サーバー維持費などを差し引いても黒字になり、持続可能なコンテンツになるわけです。当サイトにも広告が設置されておりますが、当サイトの運営費は広告費によって賄われています。おそらく、広告がなければこの記事もこの世に存在しなかったことでしょう。

もちろん広告がイヤだという人は多いでしょう。

広告を見に来たわけでもないのに、ウェブサイト利用中に広告が目に入るのは快適とはいえません。広告を誤って踏んだら別のページに飛ばされるようでは快適とはいえません。広告なんか踏んでやるものかと注意を払いながらコンテンツを楽しむなどもっての外。

広告を踏むことそのもので私たちが失うものはありません。しかし広告によってこのように快適さが犠牲になっていることを考えると、私たちは快適さを対価としてWebコンテンツを楽しんでいると言えるのではないでしょうか。

「ウェブコンテンツへの支払い方法」という枠で捉えると、広告もCoinhiveも変わるところはありません。

広告が「快適さ」で支払っているのなら、Coinhiveはそれに代えて「CPUパワー(=電力)」で支払っているというだけのことです。方法自体が違法でない限り、どちらの方法でウェブサイトへの支払いを行うかはユーザーの自由であるはずです。そもそもユーザー全体の幸福度を考えると、複数の支払い手段を選べる状態にある方が望ましいとさえ言えるでしょう。

まとめ

純粋に支払い手段として考えた場合、広告もCoinhiveもまったく等価です。その認識に立った上でCoinhiveを違法とするためには、Coinhiveというプログラム自体あるいはそれを使ったマネタイズ方式自体を名指しで違法と定めるというのが方法としては妥当でしょう。

将来的にそうなる可能性がないとは言いませんが、それはどれだけ理に適ったことでしょうか。

これでもなお、社会通念上どうしてもCoinhiveが許容されないという意見がまかり通るのであれば、そもそもインターネット上のコンテンツは無料ではなく、そのためユーザーは何かの形で対価を支払わなければならないという認識が著しく欠如しているのではないか、という別の問題が見えてくるように思います。