原子力潜水艦の研究は原子爆弾よりも早かった!疎まれた研究と、偉人の影に消えた一人の科学者

事故調査の結果、六フッ化ウランの貯蔵容器が原因だと判明。貯蔵容器には継ぎ目のないニッケル製のチューブが必要だったが、ニッケルの製造を陸軍が取り仕切っていたために、海軍の管轄であるNRLは仕方なく代替品を使っていたのだ。しかし事故調査を行ったのは陸軍の人間で、調査の詳細がNRL側に開示されることはなかった。
この話には続きがある。フィラデルフィアの工場はこの後修復されて稼働を再会するのだが、あろうことかマンハッタン計画に必要な濃縮ウランを供給するために活用された。ロス・ガンの憤激はここに極まったに違いない。

このような逆風の末、第二次大戦中にNRLが上げた功績は熱拡散法によるウラン濃縮方法の確立、そして濃縮施設の建造という程度にとどまった。一方のマンハッタン計画では原子爆弾が完成し、計画途中でシカゴ・パイル1号という原子炉(プルトニウム製造用で発電はできない)も開発されている。

2つの計画が統合されることはなかったから、この差はとりもなおさずリソース配分の差、ひいては優先度の差だといえる。そして、優先されたのは原子爆弾だった。

偉人の影に消えた一人の科学者

ウランを使った強力な爆弾を製造しうることは第二次世界大戦以前から知られていた。一撃で都市ひとつを壊滅させる兵器をナチス・ドイツが開発すれば脅威となるので、それに対抗すべくアメリカも原子爆弾を作るべしという論調が当時は強く、その研究開発は一刻を争うものとされた。一方、NRLが目指したものは原子力機関の開発で、爆弾の製造は後回しになっている。同じ原子力研究とはいえ方向性が違っていて、マンハッタン計画から見れば人員や物資を取られるかもしれない「商売敵」となってしまったのだ。それがNRLの冷遇につながったことは想像に難くない。

戦後になってもマンハッタン計画の情報やデータは秘匿され続け、NRLの研究は進まなかった。さらなる進展はハイマン・リッコーヴァーの登場を待たねばならなかったが、彼の尽力によりロス・ガンの悲願だった原子力潜水艦がついに完成する。

しかし皮肉なことに、リッコーヴァーの功績はあまりに大きかった。基礎的な技術研究を率いたロス・ガンの名は彼の名声に埋もれてしまい、最初期の原子力計画という点でもマンハッタン計画というビッグネームが聳え立つ。目立った結果を上げられなかったことも相まって、NRLの原子力研究は歴史の影に隠れてしまった。

ロス・ガンの考えについては、バウエンへの手紙などに書き表されたものが断片的ながら残っている。当然というべきか、MEDに対しては歯に衣着せぬ物言いで、「MEDの連中は協力的でないどころか、何かにつけてNRLの研究を台無しにしようとしてくる」だとか「そのせいで戦争を何ヶ月も長引かせることになった」とまで発言している。1954年のバウエンへの手紙には、NRLの研究は原子力の幅広い活用につながるもので、爆弾を作るだけのマンハッタン計画よりも価値があったと説く。陸軍と海軍の対立についても言及があり、両軍が足並みを揃えなかったのは派閥政治に原因があるとまで記していた。

さすがに言いがかりとしか言えない意見もあるが、色々腹に据えかねるものがあっただろうと同情の余地はある。原子爆弾・原子力潜水艦の開発計画など、半世紀以上過ぎた今では遠い国で起きた台風や地震のように実感の薄いものだが、その狭間で苦杯をなめた人間の言葉を目の当たりにすると、そのような茫漠とした出来事も確かに人間の行いだったと気づかせてくれる。