そんな中でアメリカただ一国がこの動きに抗った。アメリカは頑なにホワイトヘッド魚雷の購入を拒否し、自国産魚雷の開発に注力するが、残念ながら目立った成果はなかった。結局1892年にはホワイトヘッド魚雷を採用し、国産魚雷の本格採用は20世紀を待たねばならなかったが、それまでの試行錯誤の間に創意に富んだ試作品を多くこしらえている。
こうしてホワイトヘッド魚雷が世界に知られるようになってから20世紀に入るまでの30年ほどの間に、魚雷は着々と進歩を重ねてゆく。
例えば魚雷の先端の形状。現在の魚雷は先が丸くなっているが、初期の魚雷はイルカの鼻のように尖っていた。
流体力学的に適した形状であると考えられたがゆえの設計だったが、1883年イギリスで行われた研究でその間違いが明らかになった。実験の結果、先の尖った魚雷よりも丸い魚雷の方が1ノット早くなることが判明。
先端を丸くすることで爆薬の量も増やすことができ、速度と破壊力を一度に上昇させる大発見となった。
(1875年のロバート・ホワイトヘッドと魚雷―Wikipedia:Robert Whitehead)
画像左側が魚雷先端部。かなり細く尖っているのが分かる。
ジャイロスコープの導入
もう一つ、ジャイロスコープの導入も大きなブレークスルーとなる。
当時の魚雷は波や風によって簡単にコースを外れてしまい、直進性の低さは魚雷の射程を伸ばす上で大きな障害になっていた。
1895年、ホワイトヘッドはルートヴィヒ・オブリーという人物から、ジャイロスコープを使った魚雷の針路制御装置の特許権を購入する。これは魚雷内部に組み込んだジャイロスコープでどの方角からどれだけの力が加わったかを検出し、それに応じて舵を操作することでずれたコースを修正する役割を果たすものだった。
理論上7000ヤード(6.3km)進んで方向の誤差は0.5度とも謳われたこの装置は、後々大きく発展するエンジンの性能と相まって、魚雷の射程を数km~10数kmにまで延長していく。
そしてこの装置もまた、魚雷の制御装置として長く使われることとなる。
(オブリーのジャイロスコープ―Wikipedia:Ludwig Obry)
この後20世紀に入り、魚雷艇や駆逐艦の進歩、潜水艦と航空機の登場を経て魚雷はさらなる性能向上を遂げ、第二次世界大戦中の音響追尾魚雷の開発を通して対潜兵器としての存在意義を確立していく。
20世紀全体を通じての魚雷の発展は著しいが、その礎となる技術はすでに19世紀中に完成していた。水圧計と振り子を用いた深度調節、そしてジャイロスコープによる針路調節という2つの重要な技術を開発したロバート・ホワイトヘッドの活躍は、19世紀後半以降の海軍のあり方を決めたと言ってもいいだろう。
1900年に撮影された、ホワイトヘッド魚雷の爆発の光景