自然に存在するものに特許はない、遺伝子特許とミリアド裁判

2015年4月から、日本ではホログラムや色彩などを含めた新たな商標制度が施行された。商標は特許と並ぶ知的財産の一つだが、ホログラムや色彩にも「知的財産」があると言われると不思議な気分になる。しかし、特許の中にはもっと変わった知的財産がある。

それは遺伝子だ。遺伝子は生物全てが持っている生物の設計図だが、ある条件を満たすとそれが特許として認められる。ただ、何を持って特許と認めるのかがは難しい。これは海外だけの話ではなく日本でも認められている特許だが、日本では議論が進んでいない。

米国や豪州ではどんな議論が行われてきたのだろうか?

遺伝子の特許

 アメリカの発明家チャールズ・グッドイヤーは、生ゴムに硫化物を加えて加熱することでゴムの弾力を増す方法を発明。1844年に加硫ゴムの特許を取得するまで彼の家族は貧困のどん底にあり、この特許権収入でようやく生活が安定したが、特許侵害が頻発したことで訴訟費用がかさんだという。
 レントゲン写真を撮るのに使われるX線を発見したヴィルヘルム・レントゲンは、この発明が万人の利益となるよう特許を取得しなかった。最初に発見された抗生物質であるペニシリンは発見から実用化まで10年の開きがあったが、これは発見者が特許を取得せず、研究・商品化のインセンティブがなかったことに一因があるといわれる。

 産業の進歩、また個人の事情や心情も絡んでくる発明と特許の事例には、常に議論がつきまとうもので、単純な善し悪しではくくりがたい。
 20世紀末に入り、その特許の世界で新たな議論が巻き起こった。
 人間なら誰もが持つ遺伝子の特許と取得するというものだ。

 例えば、アメリカ合衆国マサチューセッツ州に本拠を置くバイオジェン社は、腎臓のKIM遺伝子という遺伝子の特許を持っている。KIM遺伝子は腎臓がダメージを受けた際の自己再生に関わるものだ。

 ほか、カリフォルニア大学は人間の味覚に関わるTCP-1、2、3遺伝子の特許を有しているし、アイルランド・ダブリンのトリニティーカレッジは人間の目の遺伝情報の特許を持つ。

 アメリカ合衆国内だけを見ても、特許が認められた遺伝子配列は50万にも上るというから、挙げていけばきりがない。

遺伝子特許の活用法

 そもそも遺伝子の特許取得は何のためにするのかといえば、医療や産業分野での応用を行うためだ。

 有名な例にはBRCA1とBRCA2の特許とその活用がある。
 BRCA1とBRCA2はそれぞれ女性の乳房と卵巣で発現する遺伝子で、傷ついた遺伝子の修復を行うことでがんを抑制する働きを持つ。元々の働きががんの抑制なので、この遺伝子配列に変異が起きるとがんのリスクが高くなってしまう。
 この遺伝子に起きた変異が原因となるがんは遺伝性乳がん・卵巣がん症候群(HBOC)と呼ばれ、変異のない人に比べて乳がん発症率が10~19倍になるとも言われる。

 血縁者の過去の病歴などから判断し、HBOCであることが疑われる場合にはBRCA遺伝子の検査を受けることができる。遺伝子に変異が起きているかどうかを調べ、がんの発症リスクを判定するのだ。
 しかしアメリカ国内では2013年になるまで、その検査法は一企業が独占権を持っていた。

ミリアド・ジェネティクス社の遺伝子特許裁判

 その企業とはミリアド・ジェネティクス社だ。同社は1998年から1999年にかけてBRCA1とBRCA2遺伝子を単離・同定する技術の特許を取得。これで同社は事実上、BRCA遺伝子に変異が起きたかどうかをテストする方法の独占権を得た。

 その後米国内ではミリアド・ジェネティクス社が提供するものの外にはBRCA遺伝子検査が受けられず、検査の費用も同社が完全に価格決定権を握っている状態が続いた。
 安価に検査することができるにも関わらず3000ドルもの高額で検査を提供し続けている、また特許を取得されていることで他の研究期間の行う研究にも差し障りが出るなど、ミリアド社のこの特許取得は批判を集めることとなる。
 そしてついに2009年、ミリアド社は米特許局とともに提訴され、BRCA1、BRCA2遺伝子の特許無効を求める裁判が始まった。
 係争は合衆国最高裁まで持ち込まれ、2013年に最高裁はミリアド社の保有するBRCA遺伝子特許を無効とする判決が下る。

 ミリアド社の独占は崩されたが、この判決はあらゆる遺伝子の特許を無効とするものではない。
 この判決で明言されたことは大きく分けて二つ。
”自然に生じるDNAは自然の産物であり、それが分離されただけで特許適格性を有するものではない”ことと、”cDNA(相補的DNA)は自然に生じるものではないので特許適格性を有する”ことだ。

 前者の語ることは、生物の体内に本来存在する何らかの遺伝子配列がDNA全体のどこにあるか突き止め、またそれを分離する方法を開発しただけでは特許として認められないということだ。
ミリアド社の特許無効の判決はこれが根拠になっている。

 そして、遺伝子特許全体が無効にならない理由は後者の一文にある。
 これは、人の手が入った遺伝子配列であれば特許として認められることを示唆しているのだ。

(次ページ: 遺伝子特許が認められる条件)

遺伝子特許が認められる条件

 判決にある相補的DNAとは、DNAをもとにタンパク質を合成する過程の途中で作られるmRNAから複製されたDNA片を差す。mRNAがいわばDNAの一部分のコピーであるから、そのコピーからオリジナルを一部分だけ作り直したような形になる。
 そして、本来DNAにはタンパク質合成に関わらない部分(イントロンと呼ばれる)があるが、相補的DNAはこのエクソンを取り除き、コピー元になったDNAの一部分よりさらに短くなっている。これをもって相補的DNAは自然の産物ではなく人工的に作られたものとみなし、したがって特許適格性を有する、というのがこの判決の要旨だ。
 つまり条件付きではあるが、遺伝子について特許を取ることが容認されたといっていい。

 この判決は、BRCA遺伝子検査の独占が崩れたこと以外にも、米国内での遺伝子特許の扱いに明確な線引きをしたという点で意義深い。しかし、国によっては特許適格性の判断基準が異なる場合がある。

 オーストラリアが一例で、2014年にオーストラリア連邦裁判所ではミリアド・ジェネティクス社がオーストラリア国内で取得したBRCA1遺伝子の特許を認める判決を下した。
 この裁判で扱われたのはアメリカでの裁判と同じ、BRCA遺伝子の同定・単離技術に関わるものだが、その判決は全く異なるものとなった。

 オーストラリア連邦裁判所の判決は、本来の遺伝子から一部分だけを分離させた場合、その「成果物」であるDNA片は性質の異なるものになったとみなされ、したがって特許として認められうる、という論に基づく。
 問題になるのは分離した遺伝子の一部分という、いわば加工品である。遺伝子が自然に存在するかどうかはこの場合問題にはならず、また遺伝子に含まれる情報そのものもまた特許適格性の議論の対象にはなっていない。
 あくまでも「あるDNA片を切り取って作り出せる技術、そしてその成果物」が特許の基準を満たしているかが問題になった。アメリカでの裁判で争点となった「自然に生じたものかどうか」とは異なる議論となるため、正反対の判決が下ったのも無理からぬことだ。

遺伝子特許で変わる医療業界

 オーストラリアでの判決は最高裁で下ったものではないため、今後覆る可能性はまだ残っている。それでも国毎に遺伝子特許の扱いには差が出ることは今後十分予想できることだ。

 2000年代に入ってから遺伝情報を手掛かりに薬を作るゲノム製薬、そして体質や疾患の起こりやすさと遺伝子の関連性を調べる遺伝統計学が台頭し、医療・製薬の分野で遺伝情報の利用価値が高まってきている。遺伝子特許について「自然に生じるもの」を認めないとする判決を下したことで、アメリカは製薬・医療分野において他国と大きく異なる舵取りをせざるを得ない状況になったと言えるだろう。