翻訳小説:悪魔の鼠 (E・P・ミッチェル)

『宇宙戦争』などで有名になったH・G・ウェルズなどに先駆け、『タイムマシン』や『透明人間』などの題材を扱っていたE・P・ミッチェルですが、SF作品以外にも心霊現象や超常現象をモチーフにした作品も数多く手がけています。

本作品『悪魔の鼠』は、ある哲学者が自身の魂を捨て去ることで、高名な哲学者ソクラテスの魂を自らの肉体に招き入れようとする物語。

人に忘れ去られ、朽ち果てた古城でたった一人。自我を捨て、魂と肉体の繋がりを切り離そうする哲学者の身に何が起こるのか?

「SF界の 忘れられた巨人」と呼ばれたE・P・ミッチェルの短編小説、『The Devilish Rat』の訳文となります。
訳に拙いところもございますが、お楽しみいただければ幸いです。

 

 悪魔の鼠

ライン川のほとりに高く聳える山の頂上に打ち捨てられた城がある。そこに一人の男が住んでいるとくれば、さまざま臆測を呼ぶものだ。シュヴィンケンシュヴァンクの村に住む善良な人々のうち半分は、村長とその姪も含め、わたしがアメリカからの逃亡犯罪人だと信じていた。あとの半分はわたしが狂人だとかたく信じていて、その説は人間の特性に詳しく、卓抜した論理性を備えた公証人によって支持されていた。この論争は文字通り村を二分し、みないつでも激論を繰り広げていて、わたし自身に干渉してくることはまれだった。

広い知識を持つとの自負ある人ならお気づきだろうが、件のシュヴィンゲンシュヴァンク城には中世の男爵や男爵夫人の霊が29体棲みついている。これらの古い霊達は慎み深かった。概して、城じゅうを大勢で駆け回るねずみ共の方がよほど気に障った。この城で過ごした最初の晩には夜通しランタンの火を絶やさず、さらにハットー司祭の二の舞を避けるために時々周囲を棍棒で叩かねばならなかった。その後わたしはフランクフォートから針金製の籠を取り寄せた。ねずみの歯では噛み切って侵入することができないので、歯と針金の擦れる音にさえ慣れればこの中で安眠することができた。

幽霊と鼠、時々やってくるフクロウやコウモリを除けば、わたしは3世紀か4世紀ぶりのこの城の住人だった。わたしは元々ボンにいた。そこの名のある大学神秘科学を教えていたカルカリウス教授のもとで独創的かつ深遠な講義を受けて大いに学んだのち、心理学に関するある実験に最適とみてこの地にやってきた。城の持ち主であった先祖代々からの方伯フォン・トプリッツ伯は、ボロ城に住むのに月6ドル払うというわたしの申し出に全く驚いた様子を見せなかった。書類を受け取る時の冷たい態度と、金を受け取る時の事務的なさまときたら、ブロードウェイのホテルの受付係もかくやというほどであった。
「最初の月の家賃は今いただきます」彼は言った。
「ちょうど用意があります。由緒ある方伯どの」わたしは答えて6ドル数えた。彼はポケットにそれを詰めて領収書を手渡した。幽霊から家賃は取っているのだろうかと、ふと思った。

住むのに一番ましな部屋は北西の塔にあったが、ここにはもうショッテンの男爵の長女アデレード・マリア嬢が住んでいた。彼女は川向こうに住む足一本のならず者との婚姻を拒否したことで、最愛の父によって餓死させられた。女性の部屋に立ち入るのは気が引けて、南向きの小塔の階段を上がった先の部屋を自室とした。ここには感傷的な修道士の霊がいたが、彼は夜のあいだほとんど部屋にいなかったのでトラブルにはならなかった。

城でのかくも穏やかな隠遁生活は、死なない程度に肉体と精神の活動を低下させることを可能にする。アルカンターラの聖ペドロは修道院の庵室で40年を過ごしたが、睡眠は半日につき1時間、食事は3日に1回という生活で修養にはげんだ。体の機能を縮小させると同時に、わたしの信じるところでは、その魂さえも、意識のない幼児と同様の不活性な状態へと縮小していったのではないだろうか。運動、思考、摩擦、そして活動こそ、人間がもともと持つ個人的な性質を顕在化させるものである。カルカリウス教授の含みある言葉が今も脳裏に焼き付いている。
「魂と生きた体とを繋ぐ不可思議なつながりは何であるか? 私はなぜカルカリウスなのか、つまりカルカリウスと呼ばれるこの魂は、なぜこの体に宿っているのか?(英明なこの教授は丸々とした手で大きな太ももを叩いた) 私が他人であり、別の誰かが私である方がよいということはないだろうか? 惰性の力と、相近いというだけの薄弱な根拠によって肉体に覆い繋がれている個人的な自我を解放できるなら、意志のはたらきによりそれを体から追い出して、より価値のある自我をその開かれた肉体に受け入れることができぬなどと誰が言えるだろうか?」

この深遠な発想はわたしの脳裏に鮮烈に残っている。わたしは自分の肉体に満足している。五体満足にして健康で、見た目もまあ申し分ない。しかし、わたしは長らく自分の魂に満足していなかった。弱く、気品に欠け、至らぬ所のある魂への不満を募らせるうち、いつしか嫌悪感さえ抱いていた。わたしが自分自身から逃げられたなら、小箱を飾る人工ダイヤを取り外して本物の宝石で飾れたなら、いかな犠牲を厭うことがあろうか。そしてカルカリウス教授と、ボンで過ごした日々をありったけの熱情でもって祝福することだろう。
わたしがこの城に閉じこもっているのは、この前代未聞の実験のためである。

週に3回山を登ってわたしにパンとチーズと白ワインを届けに来る宿屋の息子ハンスとその姉を除いては、隠遁するわたしを訪ねてくる者といえばカルカリウス教授ぐらいであった。彼は以前に2度、わたしを元気づけるためにやって来た。

1度目の来訪の日暮れ時、われわれはピタゴラスについて、また輪廻転生について話していた。転生を深く信じているこの教授はたいそうな肥満で、またひどい近眼だった。
「この丘を生きて下りられる気がしないね」教授は不安げに両手を握り合わせて泣くような声を上げた。「私はきっとすっ転ぶよ。おお神よ、そうして運悪くとがった岩の上にでも落っこちるんだ」
「一晩泊まっていかれるといいでしょう、教授」わたしは言った。「この針金の籠の中に二人で入って寝ましょう。同居人の修道僧にも紹介しておきたいですし」
「空想が過ぎるよ、若き友よ」彼は言った。「君の言う幽霊は視神経のつくるまやかしだ。哲学者らしく、私は恐れることなく理性をはたらかせるとも」
わたしは籠の中のベッドに教授を寝かせ、多大な苦労の末に自分の体をその隣に押し込んだ。教授のたっての頼みでランタンの火は消さなかった。「君の空想上のお化けを信じるわけじゃない」彼は説明した。「そんなもの脳の作る虚像だ。ただ部屋が暗いと、私が寝返りをうった拍子に君を押しつぶしてしまうかもしれない」
「君の自己抑制は進んでいるかね」彼はしばし間を置いて言った。「自己の魂を支配するとは――。 うわあ! 今のは何だ?」
「鼠ですよ。籠に入ろうとしてる」わたしは答えた。「落ち着いて、大丈夫です。わたしの実験は順調に進んでますよ。世俗へのあらゆる興味はもうかなり消え去ってしまいました。愛、感謝、友情、わたしや友達の幸福――みなどうでもいい。すぐに、願わくば、わたしの記憶も薄れていって、記憶とともにわたしの過去も消えるでしょう」
「めざましい成果だ!」彼は熱を込めて感嘆した。「心理科学への計り知れぬ貢献だよ。まもなく君の精神は白紙に戻り、そこに生じる真空には――ひええ! 今のは何だ?」
「フクロウの鳴き声ですよ」なだめるようにわたしは言った。わたしにはすっかり馴染みになった灰色の鳥が羽音も高く天井の裂け目から入ってきて、籠の上に降り立った。
教授は興味深げにフクロウを見つめた。フクロウはゆっくりとまばたきをした。
「しかしだ」教授は言う。「このフクロウに宿る魂が過去の偉大な哲学者のものでないと誰が言いきれるかね? もしやピタゴラスか、はたまたプロティノスか、ひょっとするとソクラテスが、あの羽根の下に身をやつしているかもしれない」
以前に同じ事を考えたとわたしは告げた。
「この場合」教授は続けた。「君のなすべきは自分の性質を打ち消し、人格を無にすることだ。そうすれば、君の周りを飛び回って受け入れられんと欲する偉大な魂を――私の見立てではソクラテスとみるが――君の肉体に宿すことができるのだ。堪え忍ぶのだ、誉れある若き友よ。世にまたとない実験と、神秘科学の――なんだあれは! 悪魔か?」
毎晩ここに現れる巨大な灰色の鼠だった。1世紀は生きているように思われるこの怪物は育ちに育ち、小型のテリアほどの大きさがあった。ひげは純白で太い。巨大な前歯は頭蓋骨に刺さるほどに伸びきっている。両の眼は大きく、血の色であった。上唇の端がしおれてめくれ上がり、悪魔が笑みを浮かべているように見える。人間以外ではまずあり得ず、人間にもまれな表情だった。年経て知恵のあるこの鼠は、無駄に籠をかじるような真似はしなかった。ただどっかと座り込んで、言いしれぬ憎悪を湛えた視線をじっとこちらに向けていた。教授は芯から震えた。しばらく経って鼠は振り返り、堅い尻尾で籠を叩いたのち、闇の中に消えていった。カルカリウス教授は安堵から深いため息をついた。それからすぐに高いびきをかき始め、あまりにうるさいのでフクロウも鼠も幽霊も朝まで部屋には近づかなかった。

約束通りにカルカリウス教授が再びわたしを訪れた頃には、わたしの知的精神的特質はごく単純な、機械のような状態になっていた。教授の来訪の日が近づいても、わたしはさほどの興味を覚えなかった。あるとき、いつも食べものを届けてくれるハンスがはしかにかかって、代わりに姉のエマが食べものとワインを届けてくれた。亜麻色の髪をした十八歳の乙女は、急勾配をレイヨウのような速さと気品で通ってきた。彼女は純朴そのもので、初々しい恋の話を聞かせてくれた。フリッツという恋人がウィルヘルム一世の兵隊として、今ケルンに駐屯している。彼はその勇気と忠実さゆえに尉官に取り立てられるかもしれないので、そのときには故郷に帰ってエマと結婚するという。彼女は乳製品を買う金を貯金に回して結構な額を貯め、昇進に用立ててもらうべくフリッツに送ったのだとも聞いた。わたしがフリッツに会ったかどうかって? 彼は顔立ちも内面もよく、エマは言葉に尽くせぬほど彼を愛していた。
わたしにとっては全くのたわごとだった。これをロマンチックというなら、ユークリッドの命題だってラブストーリーになる。このとき、わたしの古い魂がほぼ消えかかっていることを喜ばしく思っていた。あの灰色のフクロウは夜ごとわたしを訪ねてきた。わたしには分かっていた。ソクラテスがわたしの体に宿る日を待っていることを。わたしもまたこの体を開け放ち、偉大な魂を受け入れたくてたまらなかった。しかし夜ごとあの忌々しい鼠もやって来て、籠越しにわたしを見つめてきた。冷たく侮蔑的なその悪意は、わたしの神経をひどく逆撫でした。籠の下から手を出して絞め殺してやりたかったが、噛まれて病気になるのが恐ろしくてできなかった。

かく意識的に抑え続けた結果、わたしの魂はこの時点でほぼ消えていた。フクロウは慈しむように、わたしに穏やかな目を向けた。あたかも高貴な魂がその瞳を通して「わたしの準備はできている」と告げているようだった。そのたびわたしも深い輝きを湛えたその瞳を見つめ返し、「来たれ、ソクラテス。その時は近い」と、無限の思慕をもって告げた。そこで視線を動かすと、決まってあの怪物じみた鼠の、悪魔のような瞳が目に入る。その冷笑するような悪意は、わたしの心を世俗とそこに溢れる憎悪へと引き戻してしまう。
唾棄すべきこの鼠への嫌悪こそ、わが生来の性質の、ただ一つの残滓だった。この鼠がいない時、わたしの魂は宙に浮いて体を離れ、いつでも羽を広げて肉体から自由になれるような思いがする。しかしこの鼠を一目見るだけで、嫌悪がその境地を瓦解させ、わたしはわたし自身に戻ってしまう。この鼠の存在そのものが、偉大な魂を受け入れる妨げになっていた。そして実験の成功のためには、この忌むべき生物を危険も犠牲も顧みず取り除かねばならないと感じていた。
「忌々しいお前を今日こそ殺してやる!」わたしは鼠に向かって声を上げた。「その時わたしの体は解放され、あそこで待つソクラテスの魂がやって来るのだ」
鼠はこちらを横目で見て、これまでにない皮肉な薄笑いを浮かべた。耐え難い侮蔑だった。わたしは籠を放り上げ、敵へと掴みかかった。奴の尻尾を取って、すぐそばまで引き寄せる。ぬめる両脚の骨を噛み砕いて、闇雲に頭を手探りに探し、首にかけた両手をあらん限りに握りしめた。用いうる全ての力と、後に引けぬ目的ゆえの無謀さをもって、忌むべき敵の肉を引き絞った。あえぎ、激痛に悲愴な叫び声を上げ、やがて鼠はぐったりと動かなくなった。憎しみは晴らされ、わたしの最後の情念は消え去った。ソクラテスを迎える準備は整った。

夢も見ず、長く眠っていた。目を覚ました時、前の夜の出来事と、これまでの過去の全ては、何年も前に読んだ物語を思い出すかのようにぼやけていた。
フクロウの姿はなかったが、絞め殺された鼠の死体がすぐそばに転がっていた。死に顔にもあの不気味な笑みが張りついていた。いま見ると、悪魔が勝ち誇る笑みのように見えた。
起き上がり、かぶりを振って眠気を払う。新たな命が血管の中で拍動するような心地がした。取るに足らぬ無意味な人間だったものはもうここにはいない。周囲の物にみずみずしい感興を覚え、世の人の中に飛び込んでいろいろな出来事と歓喜を味わいたい気分だった。

可憐なエマがバスケットを持って丘を上がってきた。「ここを出ようと思います」彼女に告げた。「ここよりいい住処を探そうかと」
「ひょっとして――」彼女は熱心に尋ねてきた。「皇帝の兵が駐留しているケルンに行くことはありますか?」
「たぶん、寄り道ぐらいはするでしょう」
「でしたらフリッツに会って下さいませんか?」彼女は続けた。「いい知らせがあるんです。意地悪な公証人だった彼の叔父上が昨夜亡くなったんです。フリッツに遺産が入るので、すぐに村に戻ってくるよう伝えてほしいのです」
「公証人?」ゆっくりと応じる。「昨夜亡くなったと?」
「そうです。今朝、真っ黒な顔で亡くなっていたと。けれど、私とフリッツにはいい知らせなんです」
「だけど――」先程よりまだゆっくりと言った。「フリッツは信じるでしょうか。彼のような世慣れた人間が、よそ者の話を信じるとは思えません」
「この指輪を持って行って下さい」彼女はまもなく答えて、指から安物の指輪を取り外した。「フリッツからの贈り物なんです。これを見せればきっと信じてくれます」

次の来訪者は、学識あるカルカリウス教授だった。出支度の途中に息を切らしてやって来た。
「わが褒むべき弟子よ、転生はできたかね?」彼は問うた。「ボンを発って夕べ着いたんだよ。しかしあの恐ろしい鼠と一夜を過ごすよりはと思って、村で宿を取ったんだ。あの泥棒宿屋め、あんなにふっかけおって」財布を取り出して中の銀貨を数えながら、彼は続けた。「一泊と朝食だけで40グロシュも取られた」
銀貨の輝きと、教授の手の中で鳴り渡る甘美な音に、これまで味わったことのない感動で新たな魂が震えた。銀こそがこの世で最上の輝きに思え、それを手に入れること――いかな手を使っても――こそが人間の最も高貴な行いであると思えた。抗いがたい強烈な衝動にまかせ、友であり指導者である教授に躍りかかってその手から財布を奪い取った。彼は恐怖と驚きとでわめき立てた。
「勝手にわめけ!」教授に向かって一喝した。「無駄なことだ。貧乏くさく泣きわめこうが、コウモリとフクロウと幽霊しか聞いちゃいないさ。この金はおれのものだ」
「なんだと?」彼は驚いた。「客人から金を奪うのか? 私は君の友だぞ、神秘科学の崇高な学道を導き教えたんだぞ。どんな裏切り者の魂が君に宿ったというんだ?」
教授の足を掴み、乱暴に床を引きずった。あの鼠のように教授はもがいた。そうして籠から針金を一部ちぎって、肉に食い込むほどきつく教授の両手足を縛り上げた。
「いい格好だ」教授の隣に立って言った。「ブクブク太った死体は鼠どもにはご馳走だ」それから踵を返した。
「神よ! お助け!」教授は泣き叫んだ。「まさか置いていく気じゃないだろうな。ここには誰も来ないんだぞ」
「好都合だ」歯ぎしりとともに、拳を教授の目の前にかざして答えた。「鼠に無駄な肉を削いでもらうのを誰にも邪魔されなくていい。ねずみはきっと腹ぺこだ、神秘科学の教授先生。魂と肉体の不思議なつながりがどうのと言ってたが、そんなもん連中がすぐ噛み切ってくれるだろうよ。自我を肉体から引き離すことにかけては、連中なかなかの腕前だ。貴重な実験の成功を心から祝うよ」
山を下りていくにつれ、教授の叫び声はどんどん遠くなっていった。声が聞こえなくなってから立ち止まり、奪い取った金を数えた。何度も何度も、例えようのない喜びとともに、声に出して銀貨を数えた。何度数えても同じ、ちょうど銀貨が30枚あった。

商売と利益の世界へ飛び入る手始めに、まずケルンへと向かった。兵舎に着いてからフリッツを探し歩いた。
「どうも、こんにちは」フリッツの肩に手を置いて言った。「よい知らせがあるんです。最高の知らせです。宿屋の娘のエマは、あなたの恋人でしたね?」
「ええ、そうです」彼は言った。「彼女から何か?」
「ちょうどね、彼女と熱烈な抱擁を交わしてきたばかりなんですよ」
「嘘を言え!」彼は怒鳴った。「金無垢にも負けず清純な彼女がそんなことするはずがない!」
「金無垢とは。このガラクタが関の山だ」落ち着き払って言った後、エマから受け取った指輪を投げてよこした。「昨日別れる時にくれたよ」
彼は指輪を見ると、両手を額に当てた。「そんなばかな」そうして、うめき声を上げる。「僕らの婚約指輪だ」苦悶する彼の姿を、私は哲学的興味とともに眺めていた。
「あんた」彼は言って、懐からよいこしらえの毛糸の財布を取り出した。「昇進の助けにと彼女が送ってくれた金だ。これもきっとあんたのもんだろう?」
「らしいねえ」酷薄にそう答えた。「見覚えがある」
 彼は何も言わずこちらの足下に財布を投げ捨て、踵を返した。すすり泣く声が耳に心地よく届いた。財布を拾ってすぐさま手近のカフェへと向かい、銀貨を数えた。ちょうど30枚だった。

この体に新しく宿った魂にとっては、銀を得ることこそ至上の幸福であるらしい。高尚な喜びではないか。あの城でソクラテスの魂など受け入れていた日には、カルカリウスのような陰気な思想家になるのが関の山だ。しかしこの体に宿ったのは、あの灰色の鼠に宿っていた魂だ。一度はこの魂は村で死んだという公証人のものだと思っていた。今ならわかる。あの鼠から受け継いだこの魂は、かつてイスカリオテのユダに宿っていた魂なのだ。こういうことをやらせれば、彼ほどの傑物はほかにない。

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