オランダ、ベルギー、フランスを占領したことで、ドイツは第1級の海軍戦略拠点を得る。これらを一日も早く拠点として活用すべく手が尽くされた。
ノルウェー占領後大西洋でUボートの通商破壊戦が再開されたが、状況はかなり良くなっていた。ビスケー湾の港を確保したことで長距離航行の必要がなくなり、Uボートの行動半径に余裕ができた。航路は以前よりずっと近くにあったといえる。1940年7月には大西洋で活動するUボートの補給・修理基地としてビスケー湾の港湾を活用できるよう、Uボート司令部は多大な尽力を行った。航行距離の短縮という利点はすぐさま、作戦海域で活動するUボートの数が倍増するという成果をもたらした。
1940年10月までの間、通商破壊戦は比較的成功を収めたといえる。イギリスの駆逐艦や海防艦はノルウェーでの戦いで損傷して修理中であるか、でなければ本土防衛のためイングランド南岸部から動けなかったことから、1940年夏の海上輸送路の防衛はたいへん手薄だった。ビスケー湾から出撃したUボートはイギリスに近いノース海峡やブリストル海峡で行動できたため、すぐさま輸送船を発見できた。Uボートの損失はごく軽微で、技術的問題の解消も進んでいき、魚雷は接触信管を装備した信頼性の高いものだけが使われるようになる。この時点では沿岸付近で簡単に輸送船を発見できたため、Uボートはまだ単独で行動していた。
デンマーク湾を通ってグナイゼナウとアドミラル・ヒッパーをビスケー湾まで航行させるという案があったが、出航前にグナイゼナウが雷撃を受けたことで実行には移されなかった。
1940年春に最初の仮装巡洋艦隊が大西洋とインド洋へ出撃し、1940年夏にはさらに別の一隊が北極海航路で太平洋へと向かった。イギリス海峡沿岸を手中に収めたことで、イギリス本土の東南沖にまでEボートが通商破壊に向かうことが可能となった。
ノルウェー遠征でイギリス海軍は打撃を受け、さらにイギリス本土の地上戦力は脆弱。この状況で、早期にイギリスへ侵攻して大勢を決するべしという意見が醸成された。しかし開戦前の状況は前述のとおりで、さらに西方の状況が急激に展開しすぎたこともあり、準備は全く整っていなかった。侵攻は直ちに、遅くとも秋までには行わねばならない。直ちに物資と訓練の両面で準備を開始せねばならず(これはヒトラーが直々に命令を下している)、可及的速やかに、現状で打てるあらゆる手が尽くされた。マリーネフェーアプラーム※4の設計は完了していたものの、物資と建造ドックの都合上、新型の揚陸艦を多数、しかも作戦に間に合うよう建造するのは不可能だった。そこでタグボートや、沿岸および内陸部での水運に使うはしけを最大限活用することとなる。それらの船に上陸用の改造を施すのだが、ほとんどは自力航行ができないため曳航を必要としたこと、及び堪航性が低い(最高でも3)という大きな欠点があった。イングランド南岸の上陸地点調査、そしてイギリス海峡の潮流と気候の調査が行われた。上陸に向けての兵員の訓練期間が延長されたが、これは必要な物資がより多く手に入ったためと、戦術上の準備を万全にするためだった。
※4(注)ドイツ海軍の上陸用舟艇。英本土進攻作戦(あしか作戦)のために設計され、1941年4月に1隻目が就役して以降、終戦までに約700隻が建造された。
イギリス本土侵攻には条件がかなり限られてくることは、指導者たちには最初から明白だった。イギリス海軍が全戦力を投入することは必至とみられたが、その攻撃から上陸部隊を守ることはドイツ海軍には不可能であったため、その役目は空軍に託される予定だった。しかしそのためには英国空軍の壊滅のみならず、上陸地点に近い港を事前に攻撃してイギリス艦艇を遠くの基地まで退避させる必要があった。近在の基地から艦艇による夜襲をかけられると、空軍では上陸部隊を防衛できないからだ。
1940年9月に侵攻の準備は整ったが、不可欠の条件とされた英国空軍の壊滅は果たされていなかった。しかし作戦の延期など問題外とされた。なぜなら作戦成功には長期間の好天が欠かせないが、10月になると強風が吹き続くため、それは望むべくもなくなる。1941年の春まで延期すれば軍事情勢はさらに悪くなるだけだと見込まれた。成功の目算がこれだけ小さくなれば、イギリス本土侵攻こそが戦争勝利のための唯一かつ決定的な手段というわけでもない限り決行する意義は小さい。このころドイツの指導者たちは地中海にてイギリスに決定的打撃を与える可能性をみていたのだ。Uボートの総数増加、および空軍の協力により次第に成果が上がっていた通商破壊戦とは全く関係のない話であるが。
かくてヒトラーは侵攻を中止したが、イギリス本土侵攻がありうるという威嚇は後々まで続けられた。
The Conduct of the War at Sea: SECTION III
(http://www.uboatarchive.net/Misc/DoenitzEssay.htm)