「モリー先生との火曜日」ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されながら、『時間があって幸せ』だと語る教師の物語

ASL アイスバケットチェレンジ(ALS Ice Bucket Challenge)のチャリティ活動について調べていたら、面白い本に出会った。

「モリー先生との火曜日」と言う本。不治の病であるALSに侵され、余命幾ばくもないモリス・シュワルツ(愛称モリー)という社会学の教授が古い教え子に「最後の授業」を行う話。ノンフィクション作品であり、実際に最後の授業を受けたミッチ・アルボムが出版した作品だ。

この本はモリー教授の「最後の論文」として作られ、モリー教授とその教え子だったミッチ・アルボムの共同作品と言える。モリー教授はこの最後の論文を完成させるために、昏睡する数日前まで彼に人間の人生において本当に大切な数々の事を教え続けた。それは、愛であったり、心であったり、家族であったり様々だ。

一つ言えることは、日々身体が動かせなくなっていく中で死を間近に感じ、如何に死ぬかについて考え抜いた者でなければ、辿りつけない境地があるということ。

教授はこう語っている。
「誰もが私みたいに時間があるわけじゃない。私みたいに幸せなわけじゃない」
死を前にして、教授がこう語れるようになったのはどうしてなのだろう?

 モリー先生との火曜日(Tuesday with Morrie)について

アメリカのスポーツジャーナリストだったミッチ・アルボムが、テープレコーダーに録音したモリー教授の「最後の授業」を記録した作品。200ページ程度の短い物語。

モリー教授は1995年になくなり、本は1997年に出版され世界中で1400万部を売るベストセラーとなった。その後、この物語は映画、ラジオドラマ、舞台と様々媒体で描かれている。教科書などに取り上げられている物語で、モリー教授の話や人柄の素晴らしさだけではなく、ALSと言う病気がどんな病気なのか知るためにも非常に興味深い作品となっている。

この作品を書いたミッチ・アルボムは、それまでずっとスポーツ誌でコラムなどを書いていたジャーナリストで、慈善事業などには全く縁のない典型的な仕事人間だった。しかし、モリー教授の「最後の授業」を受けて以来、人が変わったという。慈善事業に積極的に取り組んだり、人生に関する書籍などを出版するようになり、精力的にモリー教授からの教えを発展させ、多くの人に伝えようとしている。著作の多くはベストセラーとなった。

ちなみに、作品のタイトルである「火曜日」と言うのは、ミッチ・アルボムが学生時代にモリー教授の授業を受けていた曜日でもあり、最後の授業が決まって火曜日に行われていた事からこのタイトルとなった。ミッチが働いていた新聞社は、彼のために毎週火曜日に休暇を与えていたそうだ。

3ヶ月と少ししかなかったモリー教授の授業だが、その中には多くの人生にまつわるエッセンスが詰め込まれていた。

モリー教授の人生

本作品に興味があり、実際に読むつもりの方はこの記事はここまでにしておいた方が良いかもしれない。以降は、本の内容について触れる記述が多く含まれる

 モリー教授は、ロシア系移民の家庭に生まれた。言葉も教育も受けていない父親のために、家族は常に福祉手当を受けていたらしい。その幼い頃の一番辛い思い出は、8歳の時、母親が亡くなった事を知らせる病院からの電報を、英語の読めない父親の代わりに自分で読み上げたこと。8歳では、まだ母親の死を現実の物として受け入れる事は難しかったはずだ。それを、電報のような心遣いの欠片もない文章で、声に出して自分で読み上げるというのは、酷い嫌がらせか拷問の一種に近かったかも知れない。

幼いモリーの父親は後に再婚するが、死んだ母の事は絶対に語らせてくれなかった。幸い新しい養母は優しく教育熱心な人物で、この新しい養母の影響もあってモリーは学問の道を目指すことになる。同時期に弟がポリオにかかり、一生言えない後遺症を残す。モリーがおとなになり結婚した頃、父親は強盗に襲われ、その時は辛くも逃げおおせたものの、直後に心臓発作で死亡した。

その後、父親の様にはなるまいと学問の道を進もうとするモリーだったが、その人生を大きく左右させたのが精神病院での経験だった。精神病院で働いている看護師達は、心を殺し、患者に対して冷たく作業的に応対していた。しかし、モリーはその患者たちに親身に接して行くうちに気づくことになる。心を病んでしまった患者たちに必要なのは、何よりも他人からの愛情であり、モリーはその時に人の愛情の大切さや人と人との繋がりの大切さを学んだそうだ。

大学教授となり、授業を持つようになってからも、人の精神性を育むような授業を積極的に行っていた。主に、「社会心理学」や「精神の病気や健康」についてなどを受け持ち、授業そのものも技術や知識的なことよりも、人の人格的な部分に深く踏み込むような内容だったと言う。

ダンスや水泳、散歩が好きで、休みの日は良く外に出ていたそうだ。ところが、徐々に身体が動かなくなっていく。最初は老化のためだと思われていたものの、あまりにも急に衰えていくため、病院に行った所、様々種類の検査を長期に渡って受け(ALSに似た病気が多く、治る病をALSと誤診したら致命的なため)、その上でALSで間違いないと言う結果になった。

その時、余命はもって2年と言う診断だった。

(下図:ダンスを楽しむ、病気の前のモリー教授
morrie_dancing

死と向き合う生活

それから、モリー教授の最後のプロジェクトが始まった。

多くの人々は、死について真剣に考えた事は無い。死を実感する事もなく、良くわからないまま死を恐れている。だから教授はこう考えた。

「ゆっくりと辛抱強く死んでいく私を研究して欲しい。私にどんなことが起こるかよく見てくれ。私に学べ」

教授はそれから、多くの友人や知人を家に招き、死を迎えることについて議論した。実際に死を疑似体験するために、本人がまだ生きている間に「生前葬儀」まで行ったと言う。これから死ぬ人間は正直になれる。その生前葬儀では、普段は言えない感謝の言葉を愛する人達に捧げることが出来たと言う。

誰にでも死は訪れるが、普通は目に見えない。しかし、死が目の前に現れた時、その人の時間の感覚は大きく変わる。タイムリミットが見えるのだ。タイムリミットに向けて、何をやるのか、タイムリミットまでにどう生きるのかを考えるようになったらしい。それで、自分の生き方というのが見えてきたようだった。

「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」

彼はこうした警句をノートに取るようになった。死の際に彼が学んだことを誰かに伝えるためだ。彼は『死するまで教師たりき』と願っていたようだ。そして、その警句が記者の目に止まり、教授の特集記事が書かれた。それから「ナイトライン」と言うテレビ番組で取り上げられることが決まり、テレビの司会者であるテッド・コッペルとそのクルーがモリー教授の家に訪れるまでになった。面白いはそこからで、教授は司会者にいくつかの質問をした。「自身の心の側にあるもの」「自身が信じているもの」など。普通なら、初対面の人間には決して話さないような質問だ。それを、精神科医でもない教授が、一人の大人に尋ねたのだ。さすがに躊躇したテッドに対し、教授はこう言った。

「私は死にかけているんだよ」

そう。教授には時間がない。初対面の人間と、関係を壊さないように注意しながら一から信頼関係を作り上げて行く時間なんて無い。最初から直球勝負。世間話で相手の様子を探る事も、愛想笑いで敵意が無いことを示すこともしない。教授が尋ねることは本当に知りたいことだけで、教授が笑うのは本当に嬉しい時だけだ。司会者のテッドは、この教授と話して行くうちにすぐに打ち解け、無事にテレビの撮影は終了した。

ミッチとモリーの最後の論文

実はここまでのモリー教授の物語の中で、本の著者であるミッチ・アルボムは出てこない。というのも、この頃ミッチは絶賛企業戦士の真っ最中で、一日中仕事に追われる生活をしていた。学生時代には、生徒と教授と言う以上に親密な友人としての関係を築き上げてきたモリー教授とミッチだったが、社会人になってからは学生時代の面影が全くないほどの冷徹な仕事人間となり、モリー教授のことを全く気に留めてもいなかった。