文科省は佐世保女子高生殺人事件を受け、文科省は道徳教育の強化が急務だとして、骨子案を作成しました。中には、今までは教科として扱われていなかった道徳教育を「教科」、すなわち国語や社会等と同様に扱うことなどが含まれています。
確かに、未成年による重犯罪の多くに、少年少女のモラルの欠如が見られます。
子供たちは大人に比べて精神的に未成熟であり、善悪の区別がつきません。そのため、犯罪と遊びの境界が曖昧で、さらに犯罪の中でも度を超えたものとそうでないものの区別が付かない傾向があります。
人を傷つけることが何故いけないのか?人を殺すことが何故いけないのか?遺体をバラバラにすることが何故いけないのか?
道徳教育でそれらを教えることが出来るのでしょうか?
未成年の猟奇殺人、佐世保事件と過去の未成年殺人を比較する【前編】
未成年の猟奇殺人、佐世保事件と過去の未成年殺人を比較する【後編】
道徳教育の現状
学習指導要領で道徳を教える様にはなっているものの、それは「教科」ではなく、あくまで普通の授業の中で教えていくものだと定義しています。そのため、学校において道徳という授業は無く、あるのは「道徳の時間」と言う道徳を教えるための時間だけです。その時間に、何をどう教えるかについては厳密に定義はされていません。
そのため、「道徳の時間」は学校側が比較的自由に使える時間となっています。学校によっては、その時間を道徳以外のことに使っている事も多く、実際に道徳を教えていたとしても、効果は学校や教師によって大きく異なります。
佐世保では10年前にも12歳の女生徒による殺人事件があり、道徳指導は教科されていたはずでした。しかし、今回のような犯罪が起きたことで、文科省としても学校や自治体任せにしていてはマズいという事になったようです。
日教組の反発
今まで道徳教育が学校・自治体任せにされていことには理由があります。その一つが、日教組の反発でした。
過去に、道徳教育の強化で生徒たちのモラルが向上し、校内暴力などが激減したと言う例は確かに存在し、一定の効果があることは知られています。文科省側からも、道徳教育を強化する様に要請はしていましたが、具体的な施策を打てた学校は少数にとどまります。
その理由としては、道徳は「教科」としては非常に抽象的で、コレという答えがありません。数学や英語、歴史の授業とは違って、正解と不正解では分けられないのです。モラルを含め、人には多様な価値観が認められてしかるべきであり、学校側がモラルや道徳を積極的に教えるのは価値観の強要であるということでした。
日教組は、国旗掲揚・国歌斉唱や愛国心教育などにも反発しており、太平洋戦争からの反省と言う意味はあれど、国や社会全体を通した一定の価値観を持つべきではないと言う考え方をとっているようにも見えてきます。
普遍的な道徳観すら持ってはいけないということではないとは思うのですが、それならばそれで、子供たちに「自分自身の道徳観」を築いていくための手助けは必要はしていかなくていけない様に思われます。
物語から道徳を学ぶ
では、具体的に道徳の授業とは一体何をするのでしょうか?
皆さんが道徳の時間にやったことを思い出していただくと分かるかと思いますが、道徳の時間には、物語や偉人の名言を読んだ覚えがあると思います。子供向けの童話から実話まで物語には様々なものがあり、物語を通して自分で考え、生徒の道徳観を養うと言うシナリオになっています。
戦争で苦しんだ人々の物語。勉学に勤しんだ人物の物語。沢山の人々を救った人の物語。大きなことをやり遂げた人の物語。
生徒たちは想像力豊かであり、物語や偉人の言葉を読んで実際に考え、想像します。
戦争の苛酷さ、勉学の大切さ、人助けの美しさ、努力の尊さ。
文科省の作った「心のノート」や「私達の道徳」と言った教材では、生徒たちが文字を書き込むスペースが沢山あります。文章を書くと、自分自身の考えや感覚が形になり、子供たちの学習・成長の助けとなります。
しかし、生徒たちにテキストを渡せば勝手にやってくれることはあり得ないため、生徒たちが物語を読み、考える時間を与え、成長する手助けをしていかなくては行けません。それが、「道徳の時間」となります。
道徳教育で成果を挙げた学校も、道徳の時間にしていたことは「物語の朗読」でした。しかし、沢山の物語の中から入念に選定され、ただ読むだけではなく、本気でその物語について考えていけるような雰囲気づくりをしていたようです。
道徳の大切さを本当に理解しなければいけないのは大人だった
道徳の授業が疎かになったのは、日教組の反発以外にも、「成績や受験に関係ないから」と言う面も少なからずあったように思われます。テスト前に道徳の時間が自習時間に代わり、運動会の前には運動会の練習に代わります。
当たり前の様に「他の時間に代えられる道徳の時間」が、本当に大切なものだとは生徒たちも気づかないでしょう。子供たちにとっても、昼寝の時間やこっそり宿題をやる時間に代わるかもしれません。
学校の教職員の姿勢も大切ですが、何よりも一番大切なのは親の姿勢です。
「私達の道徳」と言うテキストには、家に持って帰って家族と話し合うことが推奨されています。しかし、一体どれだけの家族が道徳のテキストをテーブル中央に置いて、家族で道徳について話しあったことでしょう?
周囲の大人達の道徳に対する理解は、子供たちにも伝わります。
そして、その子供たちが、更に次の世代に伝えます。
今まで私達が築いてきた道徳感は、本当に蔑ろにしても良いものだったのでしょうか?